鉛筆

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 そんな、夏の日の記憶。ただそれだけの、夕暮れの記憶。  息の詰まりそうな感覚が、喉からもったりと持ち上がる。そうして僕の頭に、混乱を持ち込もうとする。そんなとき、それは暴力的に訪れた。  暗闇が溶けた水面を、大きな魚が、水面をヒレで叩き割る。糸が、竿が悲鳴をあげて、海中にもぎとられそうになる。心臓が跳ね、股間が縮む。けれどもそれは、やってきた時と同じように、唐突に終わりを告げていた。次の瞬間もうすでに、糸は空にたなびいていた。  静寂が僕を包み込む。穏やかに寄せる、波の音。それだけが、闇に染み入るように、堤防にぶつかり消えてゆく。  空はもう、夜のとばりが落ちていた。あたりには、一片の朱色も見当たらない。  「鉛筆」が消えた水面に、微かに波紋が浮かぶのが見える。  ため息が一つ、零れて落ちる。  これといって、感傷も感情も覚えない。  ただ海は、何事もまるでなかったように、徐々に形を取り戻す。そうして夜とひとつになった。  まるで何かに、取り残されたような気分になって、僕はその場に立ち尽くす。  どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、不意に頭上で灯りがついた。  港に一つしかない電灯は、僕を暗闇から隔離する。けれどもそれは、手の届く範囲の外側が、全て闇だと、告げている。  糸の先にいた筈の魚はもうすでに、ここよりも暗い海の底へと帰っていった。「鉛筆」を口にくわえたままで。孤独に闇へと降りて行く。僕はそれを手に取るように感じいる。そして僕は、思いを馳せる。やがて朽ちゆく「鉛筆」へ。海底へ消えた魚とともに。  町の灯りと、僕との間、闇は憮然と横たわる。僕と僕の帰る場所、その間に横たわる。町の灯は、ただ遠い。まるで、記憶の中の景色のようだ。  戻らねば、ならないだろうか。戻らねば、ならないだろう。不意に吐息が漏れ出した。 「不感症になるから安心しなよ」  奈々未の言葉を思い出す。  あの頃は、不感症なんて言葉知らなかった。今ではそれも知っている。そして僕は憧れる。もう、何も見たくも感じたくもない。灯りの外側、あの闇に、僕は溶けてしまいたい。そして僕は、無になりたい。  想いに導かれるようにして、灯りの外に踏み出した。  眼前に、何一つ見えずに立ち止まる。まるで、宇宙の隅に一人で放り出されたような景色があった。ただ、波の音だけが鼓膜を揺らす。その侘しさが、静かに胸に降りてくる。それだけが、僕の胸を温めた。  そうして、僕は瞼を瞑る。  不感症、それはなんて……。  自然と、笑みがこぼれだす。けれども、それは、刹那に終わる。  僕が瞼を開けたとき、世界はもうそこにある。暗闇の中に幽かに浮かぶ、モノの輪郭が滲み出す。  僕はゆっくりと首を振る。  大丈夫、大丈夫。十二秒。きっとそれだけだ。きっとそれだけ、なのだから。  気がつくと、僕は見知った場所にいた。  誰もいない、田舎町の防波堤。そこから続く海岸線、その先にある僕の町。  振り返る、夜灯が独り立っている。それはもう、何も照らしはていなかった。そうして、僕は歩きだす。明るくもなく、進めないほど暗くない。  ただ、夜に紛れた孤独が僕に、ひっそりと語りかけてくる。  
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