鉛筆

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「まだやってたの?」  僕は声の主を見る。と同時に時間に気が付いた。手元ばかり見てたから、夕暮れに気づいていなかった。僕は暫くほうけた後で、ゆっくりと彼女に頷いてみせた。そして、途端に気恥ずかしさがやってくる。急いで手元に目を落とす。 彼女は暫く黙ったままで、僕の後ろに立っていた。 ライターの音が聞こえた後で、ふっと、息を吐き出した。それをただ、聞いていた。  彼女は、夏の暑さにうなだれながら縁側で煙草をくゆらせる。煙草火が、2つ目の夕日のようだった。僕は傍目にそれを見る。  煙草の臭いにかすかに交じる、どこかの家の夕食の匂い。  おそらくきっと、焼き魚だろう。嗅ぎなれた匂いだからすぐ判る。それは、この港町にありふれたものだった。  やがて、彼女は独白のように、僕に言う。 「あんた、今が人生で一番楽しい時期だから」  僕は何かを言おうとしてやめる。ただ、彼女の声の響きがどこか儚げで、声を交わすのが怖かった。そのうち、何を言おうしてたのかすら、すっかりわからなくなっていた。迷い犬のように途方にくれる。 「中学も高校も楽しくないのかよ」  そのうち、顔をあげずにそう言った。僕はただ、無言の時間に耐えきれなかっただけなのだ。  彼女は鼻で嗤って、煙草を揺らす。 「楽しかったら、中退なんてしないわよ。それでも18越えるとね――」  彼女はそこで煙を吹いて、行方をただ目で追っていた。白色が、完全に空へ消える頃、「不感症になるから安心しなよ」そうポツリと呟いた。それだけのこと。それだけの時間。それを何故、僕は今思い出しているのだろう。  夜がすぐそこまでやってきて、今にも太陽を飲み込んでしまいそうな時。彼女の顔は、夕闇の中に溶けていた。それは景色のせいかもしれないし、僕の記憶のせいかもしれない。 「それにね、それまでの辛いことなんて十二秒くらいの辛抱なのよ」  不安そうな、諦めたような、笑っているみたいな声で言う。 「十二秒?」  要領を得ずに、僕は聞く。けれども彼女は、もう、僕の方など見なかった。ただ、何処か遠くの方を見て時折煙を空へと放す。 「一瞬よりは長いけど、一生分の時間からみればちっぽけな時間に変わりがないでしょ?辛いときなんて後から振り返ってみれば、案外そんなもんなのよ」  彼女はもうそれっきり、何も話はしなかった。
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