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 それからというもの、私は常にマスクを着けるようになり、不自然に吊り上がった目元を覆い隠すように髪の毛を垂らして、ひたすらに俯いて過ごすようになった。  まともな食事をせずに酒量だけが増え、コンビニの駐車場で座り込んでカップ酒を飲んでいると、浴衣や甚平を着た子供達が楽しそうに歩いているのが見えた。近くの神社で縁日でもしているのだろう。覚束ない足取りで後を追うと、そこは何時ぞや父と訪れた夜市の大通りだった。  私はきっと夢を見ているのだろう。歩を進めると、見慣れた小さな路地が見えた。一件だけに灯る、紅いランタンの妖しい光がゆらゆらと揺れている。店の前には、あの主人ではなく、紅い布を被った女性らしき人物が、豪奢な装飾の黒檀の机を前に座っていた。  私はその前に立ち言い放った。 「私の顔を返しなさいよ」  恨みのこもった私の声に、目の前の人物はころころと笑ってみせた。 「お前の顔?返したところで、今と何が違うのさ」  そう言って、女は白い指で卓上に面を放った。 乾いた音を立ててひっくり返った面を見て、私は思わず悲鳴を上げた。口の端が裂けたように下がり、目は不自然に吊り上がっている。化け物の顔だった。 「あの時、私はお前を助けたんだ。こんな場所で捨てられたお前が余りにも不憫だったからね。人として人生を歩み直せるように新しい顔を与えたのに、お前はそれを自分で踏み躙ったんだよ。言ったろう。生き方は顔に出ると」  女の声は、いつしかあの主人の声と重なっていた。  あらゆる記憶がフラッシュバックのように蘇る。父の背中しか思い出せないのは何故か。何故あれ程にあちこちの夜市に連れ回ったのか。何故母と妹が同行しなかったのか。何故母が父と私を引き離したのか。何故あの時、素直に有難うと言えなかったのか。そして誰にもごめんなさいと言えなかったのか。  何故、何故、何故。  あの時、大通りで泣き叫ぶ私を見た父の表情を確かに覚えている。 “何故戻ってきたんだ”  私はそれを知りながら、全ての記憶に蓋をしたのだ。父をそうさせたのは別の何かである筈だと、現実を見る事を放棄したのだ。  私は大声で笑った。笑いながら泣き叫んだ。鼻水と涎で顔がぐしゃぐしゃになり、声も枯れ果てる程に雄叫びを上げて泣いた。  女は意に介す様子もなく、叱責する価値も無いと言ったように言い放つ。 「さて、元の顔と交換するかい?それとも別のものに変えるのかい?」  私はボロ切れのように、土臭い石畳の上にうずくまって居たが、やがてふらりと立ち上がると、目の前の女に言った。 「必要なら今までの記憶でも持っていけば?どうせ戻ったって死んだのと同じよ」  だが女は酷く厭わしそうに睨め付けると、吐き捨てるように言った。 「記憶を消して過去が帳消しになるとでも思ってるのかい?どこまでも都合のいい女だね。まあいい。一生そうして生きていきな。今回は取引無しだが、要らないならその面は返して貰おう。二度と来ないで欲しいね」  汚物を見るように女が手を払うような仕草を見せると、辺りは縁日に向かう人の群れの中へと変わっていた。全てが今終わったと、私はそう感じていた。    私は闇の中にいる。窓の無い白い部屋の中で、身体中を拘束された状態で、一日中横たわっている。私の目は殆どのものを映さないが、天井にぼんやりと映る自分の姿だけは何となく見る事が出来る。目鼻の穴を開けただけのような、真っ黒な泥人形がそこに居るだけである。ただ、意識だけは鮮明で、時折口汚く罵る人々の声だけは、無い耳が拾い続けている。 「このババア、バケモンだよな。寒気がするよ」  私はいつからこの闇に染まっていたのだろうと思う事がある。だがいくら思考を重ねても、その先には濃く深い靄を湛える、樹海に分け入るような心地しか残らなかった。  私は何をしたんだっけ。お父さんは何処に行ったんだっけ。紅いランタンを見た気がするのだが、今となっては、その紅という色がもう思い出せないのだった。 了
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