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A棟105号室
起きてしまった末っ子に、おっぱいをあげる。
立ったまま、カーテンの隙間から外をのぞきながら。
3人目ともなれば、どんな姿勢でも授乳出来てしまう。
他の子たちは寝ていた。小学生組は、ちょっとやそっとの物音では目を覚さない。
だから明かりは点けない。
夫はパジャマの上にフリースを引っかけて、慌てふためいて出て行った。
ビービーと喚く車を見に行ったのだ。
かちかち山の狸を思わせた。
程なくして、音は止まった。きっと誤作動だ。盗難防止装置の誤作動。
なんて近所迷惑。
暗がりの中、目をこらすと、夫は少年と向き合っていた。
わたしは窓を小さく開けた。そっと。
金木犀の匂いと、ふたりの声が、部屋に侵入してくる。そっと。
少年がボールを蹴って、それが車に当たってしまったらしい。その振動で車の装置が作動して、あんな大騒ぎになったのか。呆れる。
「なんで、こんな時間にこんな場所で、サッカーの練習なんて、してたんだ?」
夫は責めるふうでもなく、存外、優しい声で少年に聞いていた。
ああそうだ。このひと、優しいんだわ。気が弱くって。
少年はぽそぽそとしゃべる。
ごめんなさい、と言っているのは、何とか聞こえた。
「そうか、君は今日、試合で2点も取ったんだな。1点はまぐれってこともあるけど、2点は本物だ。それは日頃から努力してなけりゃ出来ないよ。」
夫の声は、夜の駐車場の中に、はっきりと聞こえた。
自分の子には、そんなふうに語りかけたことなんて、無いくせに。
苦々しく思う。手に力がこもってしまったのだろう。まどろみかけていた我が子が再び乳を吸い始めた。
「そりゃあ、君だって、ほめてほしかったよな。お兄ちゃんばっかりほめられるんじゃ、不公平だよな。」
夜目にも、浮かび上がるシルエット。ぽんぽんと、夫は少年の頭をなでた。
ああ。あんなふうにしてくれてた。わたしにも。
落ち込んだときはいつも、してくれてた。
「おじさんの車、かっこいいね。」
少年は元気を取り戻したらしい。
「かっこいいだろう。この車、屋根が開いちゃうんだぞ。」
すげー、と少年が言う。
そうよ。
ここでは目立ち過ぎる、「すげー車」。
「オレ、おじさんのすげー車、壊さなくてよかった。」
「おう。車がぶっ飛ぶくらい、すげーシュート、練習しろよ。」
夫が答える。ああもう。バカなの?
「おじさんも君みたいに、かっこよくなりたいよ。やっぱり練習しなきゃ、かっこよくなれないよな。」
かっこいいって、なんだろう。
夫は、かっこよく、なりたかったのだろか。
車を買うことで。
「君のお兄さんも、きっと、たくさん勉強したんだろうな。」
そうだよね、少年がぽつりと言う。
「認め合うって、たいへんだよなぁ。」
夫がのんびりした声で言う。
もしかして、このひと、わたしが聞き耳を立てているの気がついているのかしら。
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