誰かが話している

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 地下鉄が緊急停車した。  私はシートに腰をかけていたため、そこまで衝撃を受けることはなかったが、そこそこ混んでいた車内にはもちろん立ったままの乗客がいて、その人たちの体は今にもドミノ倒しが起きてしまいそうなほど傾いていた。  しんと静まる車内。  アナウンスは流れなかった。    緊急停車の経験は多々ある。  いつもなら、感情のこもっていない車掌の謝罪が放送され、その後ふわっとした原因が知らされる。  でも、何も放送されない。  何か変だ。  だが、流石は都会の民。  どよめきは一切起こらず、手元のスマホをいじったり、目を瞑って睡眠欲を満たそうとしたりと、我関せずと各々が好きなことをやっている。  誰も取り乱すことはい。  子供もちらほらいたが、その子たちも、不思議に思ってはいるものの、親に黙っているように言われれば口を閉じて大人しくしていた。  入口付近のベビーカーに乗せられた赤ちゃんも、今は静かに眠りについている。  泣き出してはいないようだ。  私はそれに、心底安心した。  先程、そのベビーカーを押して乗車してきたママさんは、キツめのメイクをした若い女性に、 『それ畳んだらどうなんですか?』  と冷たく文句を言われていたのだ。  まだその女性は近くにいる。赤ちゃんが泣き出したら、次は何を言ってくることやら。  そんなことを思っていると、突然車内の電気が消えてしまった。  真っ暗になった電車の中。トンネル内も明かりはついていない。  空調も切れ、本格的な静寂が訪れる。  これには流石に皆動揺した。  ざわざわとした独特な音が車内を包み込む。  子供が不安げに親へと声を掛ける。だが、またも黙っているよう制されたようだ。  何も見えない。暗闇だ。  扉付近で、何かがぶつかる音。音の質から、ベビーカーだと分かった。  誰かの足が当たったのだろう。  衝撃で赤ちゃんが起きてしまい、ぐずり出す。 「あー、もう。いい加減にしてよ」  心無い大きな呟きが、近くから聞こえてきた。  あの若い女性だ。  ママさんは何とか赤ちゃんを宥め、静かにさせる。  誰も何も言わない。他人事。かく言う私も。  と言うより、私は口出しできない。  ざわめきだけが車内を包み込む。  やはりアナウンスはない。  だが、しばらく経てば、皆押し黙り、落ち着きを取り戻し始める。  またも静寂が訪れて、耳鳴りが起こるほど空気の流れが止まる。  その時だった。 「やっぱり、そう思う?」  唐突に、そんな不自然な始まり方の会話が聞こえてきた。 「うん。思う」  話しているのは二人だけのようだが、二人の声質は似ていて、小さな男の子の声にも聞こえるし、成人した女性の高い声にも聞こえる。 「電車担当は、君だったよね」 「でも、保護者担当は君だよ」  会話ははっきりと車内中に聞こえており、乗客のほとんどが二人の声を拾っているのが分かった。 「確かに、混雑時にベビーカーをそのまま乗せたら、嫌がる人もいるよね」 「そうだね」 「ベビーカーを乗せる時のマナーで、混雑時を避けるって項目があるらしいよ」 「へえ。自分の都合に合わせて乗車できないんだ」 「そうだよ。もし混雑時に乗りたいなら、ベビーカーを畳むしかないね」 「でも、ベビーカーを畳んだら、赤ちゃんは抱っこしなきゃならないよね」 「そうだね。そうなったら、座らないと危ないよね」 「そうだね。席を譲ってもらわないとだね」 「そうだね。でも、畳んだベビーカーって、座りながら支えとくの大変そう」 「そうだね。赤ちゃんは片手で抱っこしておくのかな」 「お父さんもいればいいんだけどね」 「いつでも手伝えるわけじゃないもんね」 「必ず存在するとも限らないしね」 「そうだね」  真っ暗な電車の中。  その二人の声だけが、鮮明に響きわたっている。 「どうする?」  突然、地を這うような低い声が放たれた。  その声は、先ほどまで話していた二人のうちの一人のものであるが、明らかに聞こえてくる方向が移動している。  見えずとも、人が動けば気配で分かるものだ。ましてやこの人混みで誰か移動すれば、自ずと人の波ができる。それに気が付かないほど鈍感ではない。  だが、車内でそのような動きは一切なかった。  こんな混雑した中で人に当たらず動き回るなど不可能。気味が悪い。 「どうしよっか」  返答の声は、どこか楽しそうな雰囲気を醸し出している。 「決め手は?」 「お察しの通り、あのお母さんだよ」 「やっぱりかあ」 「赤ちゃんを抱っこするのって、大変だよ」 「そうだね」 「家の中でも子育てで疲れなくちゃいけないのに、外でも疲れることを強要されなくちゃならないなんて」 「世のお母さんは大変だね」 「お母さんがいないと命は生まれないのにね」 「それをみんな、分かってるはずなのに」 「なんにも言わないんだよね」 「それが、何より被害が少ない方法なんだよ」 「そっかあ」 「でもね、思うよ」 「何を?」 「円満に生活を送るためにはね、我慢は必要なんだよ」 「そうだね」 「遠慮も必要なんだよ」 「そうだね」 「でも、こんな風にね、命の源である母親を、虐げる人間で溢れた世界はね」 「うんうん」 「滅んでしまえばいいと思うよ」  最後の言葉は、ぞっとするほど耳の奥の方で振動していた。  次の瞬間には、がらがらという凄まじい崩壊音と、乗客たちのけたたましい悲鳴で聴覚は占領された。  電車は下降していくように傾いていき、窓ガラスが無残に割れていく。  どこからか光が差し込んだと思ったら、電車の外に太陽のような大きなまん丸の火の玉が見えた。  トンネルだと思っていた車外は、今はただの真っ暗な亜空間。宇宙のようにも思えた。  車内の床は抜け落ち、立っていた乗客から次々と落下していった。  私は知っている。  落ちた先にあるのは、奈落の底だ。  ベビーカーに手を添えていたあのママさんも、その赤ちゃんも。そして文句を言っていたあの若い女性も、みんなみんな落ちていく。  残ったのはシートに座っている乗客たちだけ。  みんなパニック状態で、何を言っているのか分からないが、とにかく叫び声を絶えず上げている。  しばらくすると、電車が激しく揺さぶられた。  まるで、巨大な何かに襲われているかのよう。ふるい落とすかのように、左右に揺らされる。  私は必死にシートにしがみ付く。  一人。また一人と、断末魔の叫びをあげて、闇の底に落ちていく。  とうとう車内に残っているのは、私一人になった。  激しく揺さぶられた電車はぼろぼろで、シートのクッションはもう剥がれかけている。  座席の端に寄り、手すりに掴まろうと手を伸ばした。  だがその時、突き上げるような衝撃が車体を襲った。  思わぬ方向からの揺れに、私は遂に座席から滑り落ちてしまった。  遠ざかっていくつり革。  絶望を伴う浮遊感。  虚しく伸ばされた自分の腕を、私は泣き出しそうな目で見つめた。  私はここで消滅してしまうのか。  そう思った時だ。  誰かの手によって、私の落下は止められた。 「こんなところで何してるの」  私の腕を、誰かが掴んでいる。  しかし、その腕の存在を視覚で確かめることはできない。 「ほら、早く始まりの土地に行こう」 「この世界は、もうすぐ滅んでしまうから」  その声は先程電車の中でずっと聞いていた二人の声だ。  やはり、目を凝らしても、その姿を見ることは叶わない。  それでも私は小さく頷いて、見えないその手に引かれながら、宇宙のような黒い空間を歩いて行く。  光を放っていた太陽のような大きな球体。  それに向かって、私は誘導されている。  辺りを見渡すと、複数の影が、同じように太陽に向かって歩いていく。  何人もの人間に似た存在が、赤く燃え盛る球体の上に集まった。 「さあ、見てごらん」 「新しい世界の始まりだよ」  嬉々とした声で、見えない誰かがそう言った。  私は何も反応を示すことなく、ただ茫然と真っ黒な空間を見やった。  ようやく思い出した。  私は、この二人の正体を知っている。  彼らはこの世界の母親だ。  何度も何度も、世界を壊しては創造してを繰り返す、命の書き換えの権限を持った母親たちだ。  二人の母親から生まれた私たちは、彼らが理想とする世界を作り上げるため、様々な場所に散りばめられた報告員。  私はその中でも新米だ。 「ぼうっとしてちゃ駄目だよ」 「世界の変化はとても早いんだから」  顔も何も見えないが、彼らは柔らかい表情で私に笑いかけていることが予想できた。そう。お母さんのように。 「さて、次はどんな世界をつくろうか」 「人間は作らないようにしようか」 「そうだね。そうしよう」 「うん。そうしよう」  彼らはその場を去って行く。  周りを見渡すと、何十人もの人間に似た男女が、膝を抱えて呆然と視線を交えていた。  あと数時間後に、また新しい世界に順応しなくてはならない。  私はその場に腰を下ろし、世界が創造されていく様を見つめた。  全身から、ワサワサと動物の体毛が急速に生えていくのを感じながら……。  
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