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「ぼくも急に耳が聞こえなくなったことがある。ちょっと時間は掛かったけど、最後は元通り聞こえるようになったよ」
「それ、どうやったの!?」
狭い視界に捉えた手を掴み返して、声を張る。
それは最早、天上から差し伸べられた菩薩の手そのものだった。
「そうだなあ、この道は割と人通り多いから落ち着いて話ができないし……」
独り言として零れた一考の欠片を聞いて、ここが遊歩道のど真ん中であることを思い出す。
思い出したところで私自身は暗闇にいることに変わりはないので、どこにいようが同じなのだけど。
「ぼく、この先の広場に来てるクレープ屋さんに寄るところなんだ。でも一人で食べるのも寂しいなって思っててさ。よかったら、一個だけ付き合ってくれない?」
丁寧な言葉選びから、思いやりと気遣いの心が感じ取れる。
再び腕に掛かる優しい引力に従って、私は暗闇の中で足を動かした。
「雨、ほとんど止んだみたい」
ばさ、と傘を畳む音が隣で聞こえて、私は納得した。
降り注ぐ雨音が聞こえなくなったので、てっきり聴覚も駄目になったのかと心配していたのだ。
靴越しに感じた地面の凹凸を思い出してからは、何とか歩行が可能になった。
腕を支えてくれている手指はあまり骨張った感じがしない。華奢で繊細、でも芯が強く、純真さに満ちている──そんな雰囲気が、腕を通して神経に伝わってくるような気がする。
隣を歩く彼が赤の他人であることを忘れそうになる程、強く。
「あの──」
他愛のない会話が一区切りついたところで、改めて切り出した。
「巻き込んじゃって本当ごめんなさい。大事な予定とか、あったんじゃない?」
「特にないよ。強いて言うならクレープを食べることくらい」
あ、そこタイル割れてるから気を付けて。
戯けた答えを返された直後、真面目な声と共に位置をずらされる。
広場自体は友人との待ち合わせでよく訪れる。通い慣れた道の筈なのに、『見えない』というだけで別の道を歩かされているかのように予測が掴めない。
「どうして見えなくなっちゃったんだろ。何の前兆もなかったのに」
「体が悪いわけじゃないんだよ。心がちょっと弱っちゃってるだけで」
え、と聞き返しかけた時──わあ可愛いプードル、と爽やかボイスが急に弾む。
「今のレインコート、すごく可愛かったなあ」
「そ、そっか。良いものみたね」
私は見えてないけどね。
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