今日も、今日とて

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 今はもう、電車で出かけることの方が多くなっていて、近隣ででかけたいところに、どういう乗り換えの仕方をすれば出かけることができるのか、頭のなかに思い描くこともできる。でも、それは単に子どもから大人になって行動範囲が広がっただけでしかなくて、子どものころ思い描いた大人という言葉の響きに感じた何かが手にはいったわけではなかった。  電車のつり革は必要がなければつかまない。別にそれは私が潔癖だからということではないと思っている。席につくことか、ドアの脇にもたれて立っていることが多い。それが出来ない環境というものは今のところまだあまりない。これが勤務時間によるものなのか、私の使う路線に伴うことなのかはわからない。少なくとも、私の地元に比べれば今の地域は豊かで、栄えていて、充実しているように映る。つり革だって、私以外はよく使っているように思う。けれど、それが本来つり革に求められている頻度なのかは知らない。実はもっと酷使されるはずのものだったかもしれない。そうすると、私の知る範囲で、私の乗る路線の列車に取り付けられたつり革たちは勿体ないのかもしれない。つり革なんてものがいつからあったものか、もしかしたら電車にはじめから備え付けられていた代物なのかもしれないが、興味もないのだけど、少なくとも今の時代においては過去の産物で、もしかしたら、そういうクラシカルな印象に囚われた人たちの感傷で存命しているものなのかもしれない。無駄といえば無駄だし、でも世の中の物って基本そんなものばかりのような気もする。全てが感傷的だと言うつもりはないけれど、昔からそうだから、そんな理由で片付けられてしまうものが溢れていると思ってしまう。人間はもしかしたら、さみしがりやで、自分のいた頃の名残がなくなってしまうことをひどく恐れてしまうのかもしれない。私はそう、考えながら電車を降車した。
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