そして日は続く

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そして日は続く

 水音が聞こえる。  本能的な恐怖を誘うような、暗く鈍重な音が来る。  一寸先を通り越して、自身の存在さえ塗り潰す闇が来る。  それが何なのか今でも分からない。  だが、原因は分かる。”それ”は、確かに目の前に居た。  それは確かに、人知を超えた何かだったのだろう。  視界は一面の紅で塗りつぶされ、片目はその機能を失っている。それは両手両足に言える事で、自分の生命線が流れ続ける。痛みはそんな感覚さえ消し、苦悶の言葉さえ浮かばせない。肺がどうにか呼吸を続けるが、これ以上は続かない事は目に見えている。  黒い塊が此方へ向かってくる。  身構える事も引く事も出来ない、それは目の前に居座った。  それは、強情だと笑いながら言葉を続ける。 「君は……本当に。んじゃ、答えをあげるよ。君が、君たちが辿り着かなかった答え。その代わりに、アレをいただく。アレは此方のモノでね。君たちの傍に居るのはルール違反なんだ」  少年とも少女とも聞こえる中性的な声で、何かはさらに迫ってくる。  そこには遊び心が含まれていた。この惨状を染め上げた何かは、この状況を楽しんでいるかのように語る。それに手を出してはいけなかった。いくつかの薬品と何かが燃えたような匂いが漂って、目の前の其れだけが分かる。……周囲の詳しい状況が分からない。希望がどうなったかは分からない。  だが。  だが、この化け物は居場所を知らない。見つかってはいない。その事実に、俺はどれだけの笑いがこみ上げただろう。  答えを知っていることを理解しながら、その選択肢はまるでないのだから。  科学者である自分はすでに死んでいる。だが、失ってはいけないモノだけは死んでいない。  鉄の味をかみしめながら、口角を上げながら。化け物に対して笑ってやった。  咳き込む比率の方が高かったが、それでもうまく笑えただろう。 「ルールがどうとかは知らん。だが、アオはやれない。お前みたいな訳分からない奴になんて尚更だ」  そう吐き捨てると、化け物は興味津々に答える。 「どうしてだい?君たちは答えを求めているのだろう?多大な犠牲を払って。仲間さえ潰して。それでも止めなかったのだろう?どうして今更、答えを目の前に手を止めるんだ?」 「……」 「君達は、一を捨てて十を取るのだろう?」  ああ。そうだ。  俺は、一介の科学者だ。禁忌に触れることもいとわず、探求心と知力を用いて人を殺す人間だ。一を捨てながら、十の人間を救おうと試みる探究者だ。それはこの化け物に殺された全ての人間がその通りだ。俺達は、その為に繰り返してきたのだから。  だが、もしそれ以上の希望があるとするのなら。俺達が救える十人よりも救える誰かが居るのなら。  そして、それが。俺達が愛したあの子なのなら。 「……俺達の限界は、もう既に分かっていた」  意識は遠くない。  こんな状況でさえ、自分自身がはっきりとしている。 「あんなものに手を出した時点で、俺達はそれ以上なんて行ける訳が無かった。どんなに背伸びをしようと、どれだけ虚勢を張ろうが。俺達の限界は此処で終わりなんだよ。答えなんて最初から無い。……だがな、神様」  例え”君”が偶然の産物で、人間ではなかったとしても。  たとえ生まれが人間でなくても。俺達は君を人と呼んだ。歌う事が好きな君に、相応しい名前に喜びを隠さない君に。何時も好奇心を隠そうとしない君に。俺達は”人”の名前を付けた。  それ相応の対価があるのなら、安いモノだ。  それ以上の対価があるのなら、俺が払おう。 「どれだけ時間がかかろうと、どんな目に会おうと。あの子は自分で、神様だって変えて見せる。俺達が捨てた人間さえ掬い取って、アイツは立派な”人間”になれる」 「化け物は人間になれない。君はアレが化け物だってことを知らないだけだ」 「化け物だって人間になれる。アオはそれでも俺達の娘だからな。……それに、アオは万人を救える」  信仰ではなく。  傲慢でもない。  それは純粋な願いであり、それは事実であり、俺達の希望だ。例え血反吐の果てに沈んだとしても、君が夢見た世界を守る為に償えるのなら。  逝かれ狂った自分達の罪を、君の為に償い続けよう。  研究者として、人間として、親として。  君の世界を守る為なら、何だってできるのだから。 「地獄って奴があるのなら、俺は喜んで其処へ行く。だから、それ位はやるよ」  腕も足も存在しない。  最後に残った目さえも差し出しながら。   それでも希望なのだ。先が見えなかった俺達の希望は、少なくとも近くにあった。最後に見た光景は凄惨だったが、痛みよりも支配する熱があった。  体は放置され、黒は呟く。   「……ああ、君達は本当に、最後まで飽きさせないね」  踵を返すように場を後にし、独り言をつぶやいた。 「今までの礼だよ。総司。僕は干渉をしない。その方が面白そうだしね。”遊ぶ人”として、一人の神様として。君が望んだ選択を楽しむよ」  言葉を返す事は無い。  つまらなそうに、楽しそうに。矛盾をはらんだ顔立ちのまま黒は歩いた。研究所は純白を染め上げ、所々に災害の跡を残しながらも存在する。一人だけの生存者を残したまま、何時しか人の目にさらされるだろう。  だが、凄惨足る今が日に当たる事は無い。 「さて、明日は何が起きるんだろうね」  化け物は楽しみだと呟いた。  人間は何時も飽きさせない。それを知っているからこそ、それは人が好きだったのだろう。  何時しか、神様だって変えて見せる。  そんな紛い言に、心を躍らせながら場所を跨ぐ。    
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