奇胎葡萄園(きたいぶどうえん)

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その時、少年の母親が彼の名前を呼ぶ。然も愛おし気に、この世で最も暖かく優しい声である。  少年は振り向く。母親は大きく、全てを包み込むように両手を広げて、もう一度、少年の名を呼ぶ。  ふくよかなスカートが風を孕んで、膨らんでは、夜の花のように萎む。白く柔らかい生き物の呼吸のようなそれは、全ての罪や穢れや痛みやらを、無効にしてしまうが如くに、無限に優しい。少年は真っ直ぐに、回帰(かえ)るべき人の元へ走り行く。  母親の腕に包まれた少年は、もう葡萄をあんなに欲しがっていた事など、すっかりと忘れてしまっていた。あんなに美しく輝いて、蠱惑的でさえもある、微睡むような陶酔で少年を魅了していたものが、今の彼の脳裏には、その幻惑は跡形も無い。  誰も居なくなった、陽の落ちた葡萄園に再び冷たい風が吹き抜けてゆく。淋しく、冷徹な夜が来て、神の眸(ひとみ)のような星が、夜の深い闇にゆっくりと、泪を睫毛の淵に光らせて、何度も瞬きをしながら、淋しく哀しい葡萄たちをそっと見つめていた。  葡萄の子たちは、安らかに眠るだろう。その黒く萌える暗黒の憎悪すら忘れて・・・。銀色に輝く星々の天の眸に見守られて・・・。
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