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それからは毎日のように彼女と過ごした。放課後一緒に帰ったり、休日は出かけたり、お互いの家に遊びに行ったりした。先日までの危険と隣り合わせの日々が嘘のようで、若干の寂しさを覚えつつも現状に満足していた。
そして、あるデートの帰り道、僕と彼女は初めてキスをした。さんざんリコーダーを舐めて間接的にはキスをしていたはずなのに、いざ本番となると緊張する。
僕は彼女の肩をそっと抑え、柔らかい唇に触れた。
「…ん?」
違和感が体中に巡った。唇に触れた瞬間、彼女の吐息が、舌と舌で交わる唾液が、僕の脳に訴えかけた。
なぜ、レモンの味がするのだろう。
リコーダーから感じたあの臭いも、刺激も、彼女の唇からは感じられない。
「…キスってレモンの味がするっていうでしょ?だからこれ噛んでおいたの」
彼女はポケットからレモン味のガムを取り出す。
「わたし、初めてのキスだったから、思い出に残るようにしたくって…」と頬を赤らめながら恥ずかしそうにしている姿がなんとも愛おしかった。
彼女が楽しそうならそれでいいか、その時はそう思えた。
二度目のキスでも違和感は消えなかった。
今度は直前に飲んでいたトマトジュースの味。三度目のキスは無味だった。
四度目のキスも無味だった。少し強引に舌を絡めて深いキスをした。彼女の口内を味わった。彼女は満更でもなさそうで、火照っている様子だった。間髪入れず今度は彼女のほうから深いキスを求めてきて、そのまま僕らは初めてセックスをした。なのに、心が満たされることはなかった。
後日、彼女を先に帰宅させ教室に残った。そしてリコーダーを舐めた。
あの味、臭いが忘れられない。どうして、このリコーダーからは彼女のキスとは違うのだろう。あぁ、今はそんなことはどうでもいい。僕の心を静められるのは、これだけだ。
それから毎日、リコーダーをこっそりと舐めた。
「最近毎日放課後残ってるよね?部活何もやってないのになにしてるの?」
さすがの彼女も怪しんだようで、僕は「そのうちわかるから楽しみにしてて」とありもしない嘘でごまかした。
カシャ
「ねぇ、彼女のリコーダー舐めるってどんな気持ち?」
放課後。僕がリコーダーを咥えた瞬間、その女はスマホで僕の写真を撮っていた。
女は僕の彼女といつも一緒にいる友達。いつもマスクをつけているから勝手に「マスク」と心の中で呼んでいた。
「なに?倦怠期?」
「そんなんじゃない、と思う…」
「たしかに、今のあんたじゃ倦怠期っていうより変態期か。じゃあなんでリコーダー舐めてんの?」
「僕にも…わからない…」
「あの子とのキスじゃ満足できない?」
「…うん…満足できない。スリルも、味も臭いも、彼女とのキスじゃ満たされない何かがあるんだ」
「正直者ね」
マスクはゆっくりと歩み寄ってくる。僕は微動だにできない。
「あんたも私も同類だ」
マスクは僕の目の前で立ち止まり、制服のネクタイをグイっと引っ張りよせた。マスクを下ろしにやりと笑う。八重歯が小さく姿を覗かせ、僕にキスをした。
瞬間、僕の脳が溶けるような衝撃を感じた。リコーダーが床に落ちる。
僕がずっと求めていた臭いと味だ。
マスクは舌を絡ませ深いキスをする。粘液と粘液が混ざり合い、舌いっぱいに苦みと酸味とツンとした臭いが広がる。
「ああっ…!」
あまりのショックで射精していた。意識を保つのが精いっぱいで気を抜いたら意識が飛びそうなほどの快感。リコーダー越しではない、求めていた味も臭いも、何倍もの濃度で僕の脳を破壊しにくる。
走馬灯のように脳裏に浮かぶ過去の記憶、僕はこの臭いと味の懐かしさの正体にそこで気づいた。煙草と珈琲。
幼いころ、母が家を出て行った母を思い出した。厳格な父とは正反対の、派手で強欲で子供のような人だった。なぜ父がこの人と結婚したのか不思議に思っていたが、母は水商売をしていて偶然身籠ってしまったのが僕だった。
母はよく僕にキスをしてくれた。煙草と珈琲を常備している人で、口が臭かった。
しかし、母からの愛情は嫌ではなかった。誰かに愛されるというのは、子供でも分かる喜びの一つだ。
母と最後の別れの際も、優しくキスしてくれた。やはり臭かったけれど、僕にとってその臭いこそが愛情だったのだから。
だからなのか、僕がリコーダーのにおいにそこまで執着していたのは。その臭いを愛と錯覚してしまっていたのだ。
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