第54話「やっとスッとした」

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第54話「やっとスッとした」

鷹夜はその言葉にコクンと小さく頷き、項垂れて少し背筋を丸めた。 「めんどくさいと言うより、何か、早くそこから出てしまえばいいのにって、思うんです」 それは単に「いつまでうじうじしてんの?」と言う疑問と、大部分は芽依に笑っていて欲しいと言う想いからだった。 思い出す度に辛くなって、泣きそうになって焦って誰かを傷付けるのはいつだってその過去を引き摺る芽依自身だ。 きっと、佐渡ジェンはそうではない。 彼を想う優しい気持ちは素晴らしいけれど、でもそれで毎回自分を追い詰める芽依をもう見たくないのだ。 「人間だから突然変われないのは分かってます。でも俺の我慢の限界が来るか、Mが完全にその辺を断ち切れるか、どっちが先に来るかが分からないんです」 そうやって追い詰められた芽依が結局傷付ける先と言ったら、鷹夜になってしまう。 彼と関わりを持ってから、そして付き合ってからも、この位置に変わりはない。 冴と言う存在も一瞬だけいて、そのときは彼女も傷付けられたが、やはり最後には鷹夜が傷付いている。 鷹夜は過去に古市に散々な仕打ちを受けてから自分を守る事を徹底しており、これ以上芽依に何かされては嫌でも彼から離れる道を選択しそうで怖いのだ。 これだけは自分でもどうしようもない。 防衛本能が働いてしまうから。 1番大切な人から同じ内容で傷付けられ続けるのも耐え難い上に、古市のときのように精神的に参ってからでは遅い。 鬱にはもう、絶対になりたくなかった。 「その、今問題が起きてる友達のことで不安定になったらしくて、こないだの夜急に家に来て、、げ、玄関先で無理矢理、口で、あの、えっと、俺が、されて。やめてくれって何回言っても止まってくれなくて。正直、しんどいなあ、と」 ははは、とから笑いが漏れる。 しかしそれに乗って笑うような人間は今ここにはいなかった。 「それ、許すとずっとやられるから許さない方がいいよ」 西宮の声は低く、冷静で、それでいて彼の発言は鷹夜と全く同じ考えだった。 「先輩、胸が痛い」 「痛むならやめろ」 前田が突然胸元を押さえてテーブルに蹲る。 蹲ると言っても、大きな身体を限界まで曲げるとテーブルの上の皿を押し潰すのでそこまではしていない。 そしてわざとらしくガタガタと震え出した。 身体に力を入れて震えさせているようだ。 多分、西宮の言う「許すとずっとやられる」には彼なりに心当たりがあるのだろう。 「その、ありますか?西宮さんと前田さんは、繰り返してること、と言うか」 「あるよ。いきなり襲われるし常識的にあり得ないことやらされるし、散々だよ」 「っ、」 「散々だよ」と言う言葉に前田の身体がビクッと跳ねた。 反省しているようには見えず、逆に責められて喜んでいる気がする。 そうこうしていると、バシンッと西宮が彼の背中を叩いた。 「だから許さなくていいんじゃないかな。俺はもう許すしかなくなっちゃってるからそこは我慢するけど、他は我慢しないって折り合いつけてる」 「、、、」 鷹夜は一瞬、この先一生芽依のこの悪い癖が治らなかったらと考えた。 西宮と前田のように、もしかしたら時間が経つにつれてこの症状にも慣れて、我慢が効くようになるかも知れない。 彼らは時間をかけて乗り越えて、お互いに色々なものに折り合いをつけ、譲るところと譲らないところを決めてあるのだろう。 そうなれるかもしれない。 時間さえかければ、芽依のこの癖に慣れて、愛しく思える彼の欠点だと許せるかもしれない。 芽依と鷹夜は始まったばかりで、この先はきっと長いのだから。 (長い、、筈だ) 長い中で、許せない事を何度も繰り返されて、やめてと言えなくなっていく。 許すとはそう言うことだろうか。 それはいつまで、あと何個、そうやって受け入れなければならないのだろうか。 いつか鷹夜が諦めて、黙ってされるがままになるのは、正しいのだろうか。 「、、、」 良い事なのか悪い事なのかは、今の彼には分からなかった。 ただ、胸の居心地が悪く思えた。 「限度はあるよ。俺が本気で拒否れば前田もやめるし」 「先輩と俺は長いからそこが分かるって言うのはありますけどね。慣れとかで」 「慣れたくなかったよ、お前なんかに」 「んふ、なに、デレてます?」 「は?」 話しが脱線した途端、また西宮が前田の鼻をつまもうと手を伸ばしたが、今度は前田がそれを口を開けて待つものだから、噛みつかれる前に西宮の方が手を引っ込めた。 「とにかく、Mくんと雨宮さんはまだでしょ」 慣れたとか、慣れてないとかが、と西宮が話題を元に戻す。 「まだならそれは許さなくていいよ。本気でされて嫌なことだって教えないと、聞いてる限りMくんは調子乗ると思う」 もっともだった。 そう、この時点で芽依の悪いところを許してしまうと後から出てくるものも全部我慢させられるような気がする。 それに、彼がどこまで鷹夜の「やめて」を真摯に受け止められるかがこの問題で決まるような気がして、気が抜けなかった。 皆んな、赤の他人同士なのだ。 常識や、「いいよ」「やめて」「気にしないで」「大丈夫だよ」等の、ときに曖昧になる意味を持つ言葉の調節は早め早めにお互いに覚えておいた方が良い。 擦り合わせて、相手の具合を知って、自分の度合いを教えるべきだ。 その時間が欲しい。 それが必要なのだと芽依に気が付いて欲しい。 「俺もそう思うんです。すぐ状況に甘えるから」 だからこそ、先日のあれはやはり許せなかった。 「ちゃんとそこ、締めとこうよ」 「、、話し合いをしてみます。ただ、今の友達の問題が終わってからじゃないと、Mは多分余裕がないかな、と思うので、様子を見てからで」 鷹夜の言葉にやっと西宮は椅子の背もたれに背中をついて脱力した。 ふう、と息をつくのが見える。 それくらいに自分の事のように、力を入れて一緒に考えてくれていたのだ。 「遅かれ早かれ話し合うことになるだろうし、タイミングは雨宮さんが思うようでいいと思うよ。雨宮さんも今、余裕ないでしょ」 「あはは、はい。何かペース乱されてて、、ちょっと変な感じがします」 肩を回してみた。 ゴリッと肩甲骨の動きに合わせて錆び付いた金具を回したような鈍い音がする。 (整体行きたい) あっちでもこっちでも、鷹夜は気を遣い過ぎていた。 このところ芽依の周りの事や彼自身の事についても気が気でなくなっていて、それでいていつも通りに自分を目の敵にしてくる上司のすぐそばで仕事をしているのだから、身体のあちこちが緊張で凝り固まっているのも納得だ。 今、芽依と少し距離を取っているこの隙に少し自分の為に時間とお金を遣うのもいいかも知れないな、と思った。 整体とか、マッサージ器を買うとか、そう言う。 「ずっと聞いてもらって、ありがとうございました」 3人とも、皿の上のものは綺麗になくなっていた。 「いいえ。色々変な話しを聞かせてごめんね」 「いや、全然。何か色々世界が広がったみたいで、ホッとしたし、学べて良かったです」 「あははっ、無駄な知識付けてそうで申し訳ない」 「そんなことないですよ」 周りの席も話がひと段落したのか、各々立ち上がって出て行く団体がいた。 店内に流れる音楽は先程聴いていたものよりももっとゆったりとした曲になっている。 午後14時近く。 鷹夜は本当に、昨日までの芽依と自分に対する不安や、初対面の西宮たちと会う不安は綺麗さっぱり胸の中から消えていた。 人に話すのはこんなにも心が楽になるのか、と感動すらしている。 「で、雨宮さん」 「あ、はい?」 もう少し話しが続くのなら、コーヒーでも頼もうか。 そう思って目の前にいる2人に「この後どうしますか?」と聞こうとしたときだった。 2人がもう帰ると言うなら、この店を出てもっと手軽なチェーン店のカフェにでも行こうと考えていた鷹夜に、前田がニッコリと笑って話しかけてくる。 何だか、初めて見た彼の貼り付けられた笑顔とはまた違う感じがした。 言うなれば、このまま人でも殺しそうな、そんな人の良い笑みだった。
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