闇色の光

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 耳鳴りがしそうな程暗い深夜に、かつん、と空気を割るような音が遠くで響いた。僕は閉じていた目を開き、自分の呼吸だけに意識を置きながら、その音に真っ直ぐ集中する。  今は一体何時で、どこから物音がするのか。  明らかに異質な物音に、身体の筋肉が強張って、一ミリだって動かせない。寝起きで身体を動かすのとは違う、本能的に「見たくない」という思いから、身体が動く事を拒否している。そんな感覚だ。  それでも音は鳴り止まない。  かつん、どん、コトン、こつこつっ。  色々な音が普段も何倍もの感触を持って鼓膜に響く。これは家の人の出す音じゃない。無遠慮に響かせるその配慮のなさに、理解が追い付かない。  一体誰?  そう息を飲んだ時、今までにない激しい扉を閉める音が聞こえた。その瞬間、変かもしれないという推測は、強固な確信へと変わる。  僕は真っ白な頭の中、胸を内側から突き上げてくる心臓の鼓動を抑えた。息を殺して、身体をゆっくりと小さく丸めて、布団の中に籠城する。  動いてはいけない。息をしてはいけない。声を上げてはいけない。  思うよりも早く本能が、その命令に従った。  足音が聞こえない。  無音の静寂だけが唯一の救いだと、僕は布団を握り締めて、ただ得体の知れない何かに震え出す身体と奥歯に力を入れた。  すると、そんな微かな掬いを嘲笑い蹴り飛ばすように、今までに感じなかった身近さで、ドアノブを回す音が響いた。  間違いなく、それは僕の部屋だ。  絶望にも似た恐怖に身体が竦む。きいっと扉が開く音がして、僕は狭い暗闇の中、ただこの後どうなるのかという妄想に囚われる。  殺されるのか、乱暴されるのか、どこかに拉致されるのか。  妄想は止まる事無く、止めどくなく僕を何度も死に追いやる。しかし、あの乱暴な扉の音はなく、小さな音を立てて扉が閉まると、入ってきた何かは、僕のベッドの隅にゆっくりと腰を下ろした。微かにベッドが軋むが、それ以降は特に何もない。  僕の今後をどうするか、吟味しているに違いない、そう思っていたが、沈黙が長過ぎる。  ゆっくりと布団から顔を出すと、やはり暗闇がそこに広がり、微かな光もなかった。 「誰……?」  いるはずのその人は、何も答えないし、身動ぎもする気配はない。僕はゆっくりと布団からにじり出ると、上半身を起こした。 「あの、僕は目が見えなくて……だからあなたの顔も認識できない。だから、このまま帰って下さい」  信じてもらえるか分からない。  けれど、僕の目は生まれた時から、強い光に微かに反応する以外の機能を見せていないのは事実だ。だから何もしないで帰って欲しいと言うのは、身勝手だろうか。いや、そもそも他人が深夜に家に入り込んでいる方が身勝手だろう。 「そこに居るなら、何か……」  反応を示してもらわないと分からない。勿論、肯くなどの動作をされても、僕には分かりようがない。しかし、僕に声を聞かせるのは相手も嫌かもしれない。  僕はどうしようと、布団を握り締めた。  すると、不意に頬に温もりが宿る。するりと包み込むようなそれに、はっと瞬きをすると、彼はすぐに僕から手を離した。  頬に触れたのは、骨ばった大きな男の手だった。  それと同時に、錆びた鉄の匂いが、その指先から漂っている事に気付く。その瞬間、僕の中に大きな感情の波が押し寄せてきた。抗いようのない悲しみだ。  僕は膝を抱えてそこに顔を押し当てた。  男はベッドを軋ませて立ち上がると、僕にそれ以上触れる気はないと言うように、部屋を出て行った。僕は残された暗闇の中、彼の残していった温もりにしがみつく様に、その死の香りに強く目を瞑った。  翌朝、僕は父の流す血の海の中で発見された。  会社経営をする父は恨みを買うことが多く、今回の事件も、家にある金品の一部がなくなっている事から、強盗と父への恨みを募らせた犯行であろうという事で、捜査が進んでいるようだった。  一方の僕もその事件の一当事者として、報道対象になった。「目の見えない少年に、暴力を振った残忍な犯人像」という事件の花を飾るように。  より犯人の残忍性を引き立てるような扱いで、僕は紙面やテレビ番組に取り上げられた。その扱いに対して、同情や憐れむような声が四方八方から飛んで来ては、知らない人たちまで僕に優しい声を掛けてくれた。  ――何も知らないくせに。  事件が一年もすれば、話題は風化する。未だに犯人は見つからず、手がかりも何も見つからないければ、連日報道された最悪な犯人も、ただの空気と変わらない。  人々は新しい話題に食いつき、消費し、飽きれば次を探す。善意を振りかざしていた人々も徐々に引いて行き、僕の日常は「平穏」というものに変わりつつあった。マスコミが追いかけてくる事も、津波のように押し寄せてくる応援のメッセージももうない。  世間は僕を――僕等をもう忘れている。 「先生、明日僕の父の一周忌なんです。ついて来てくれませんか?」  僕がそう言うと、ぼやける白い闇の中で、影がゆらりと動いた。そして、机に乗る僕の手をそっと握り、 「いいよ、車で行こう。迎えに行ってあげるよ」  と優しく囁く。彼は椅子を引いて僕の前に座った。僕は固定された影に身を乗り出して、 「ううん、電車で行きたい」  と彼にねだった。先生は「電車かあ、偶には良いかな」と呟くと「じゃあそうしようか」と僕の手を握り締めてくれた。僕はそれに頷いた。 「ねえ、先生」  僕は彼の骨ばった大きな手を握り返す。不意に父の顔を思い浮かべると同時に、あの一年前の記憶が蘇ってくる。暗闇の中で、男が――先生が――働いた行為を。 「あんな事、させてごめんなさい……」  先生が沈黙する。あの時みたいに、静かに口を閉ざして、気配を小さくして。 「でも先生、お金も何も取らずに行っちゃうから、あの後お金捨てたり、父さんが大事にしてた時計とか捨てるの大変だったんだよ?」  僕がそう言うと「ごめん」と、先生が呟いて、僕の頬に触れる。優しく、父さんが僕に与えた痛みなんてものからは程遠い温かさで。 「あの事件前まで、誰も助けてなんてくれなかっ た。先生だけが気付いてくれて、助けてくれた」  父親は社会的には成功者ではあったが、誰から慕われるという事のない身勝手な男だった。それが窮屈になって出て行った母親の残した目の見えない僕は、父親の目の上の瘤以外の何物でもない。  嫌な事があれば、僕を罵倒し、その日の気分次第では拳も飛んできた。強い光を微かに感じる事の出来る僕には、咄嗟にそれを避ける術などもなかった。 「見ない振りしないで、僕を解放してくれた」 暗闇の中で蹲るしかなかった僕を、その大きな手で引き上げてくれた。  不意に夏前の穏やかな風が窓から入って来て、教室の中をくるりと回旋して消えていく。  僕等はその中身を寄せ合い、キスをした。手を強く握り合えば、暗闇は驚く程真っ白く温かい闇に満ちている気がした。
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