偽物

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偽物

 レッスン室で母はスイと隣り合ったピアノを前にして座ると楽譜の基本的な見方を教えた。  大譜表の見方からト音記号なら主に高音部の右手、ヘ音記号なら主に低音部の左手と、その音の表し方の違いを分かりやすくノートに描いて実際に弾きながら説明する。  スイもさっきの宿題と違い、気が逸れることなく配られた楽譜を見ながら真面目に話を聞いた。 「奥様の説明わかりやすい。ヘ音記号の音が合わない謎が解けた。ト音記号と音の読み方が違うのか」 「そうね。書き始めがト音記号だとソの位置。ヘ音記号ならファの位置ね」 「これでヘ音記号の音符が読める」  俺も今更ながら母の話を懐かしく想い出しながらソファーに座り聞いていた。  ピアノをやり始めた頃、楽譜を見なくても耳で聴いて弾けるからと嫌がって母のこの説明をいい加減な態度で聞いていた。  後日、楽譜を父に渡されて俺がそれを見て弾けないと分かると父から酷く叱られた。  半年後に母に代わり、盆田先生が講師として俺のレッスンに付いた。俺は始め、レッスン中に厳しい盆田先生が怖くて楽譜の読み方を必死になって覚えた。  楽譜を見て弾けるようになると、初めて見る楽譜にどんな曲なのか想像して弾く楽しさを覚えた。  母はこの楽しさを小さかった俺に知って欲しかったのだとその時にようやく理解した。
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