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今日最後のメインディッシュをお皿に飾りつけたら今日の仕事は終わりだ。日本人の食事は欧米人よりも早く2時間を想定するフルコースを1時間半未満で食べ終えることも多く、今のお客様は彼らもまた2時間を切った。デセールの注文を取りに行く際に挨拶に行くのが『Lavender』の規則なので厨房から出て行く。
テーブルに着くと女性の方が結婚記念日のお祝いに子どもたちがこの旅行をプレゼントしてくれたのだ、と嬉しそうに話した。わたしはその時、酷い顔をしたのだろう、男性が止さないか、と渋い顔をした。わたしは慌てて笑顔を取り繕うとデセールの注文を受けた。ティラミスと季節のフルーツタルト。デセールを作るのはまた別の料理人の担当なので注文を告げるとわたしはさっさとコック帽を脱いだ。コックコートをハンガーにかけると扉の内側についている鏡に顔が映る。ああ、酷い顔だ。あの女性を見て雅子を思い出したのがまずかった。「結婚記念日に子どもたちが」と続いたのがとどめを刺した。
女性を見て、雅子を思い出した。わたしの恋人で妻。いやだった。結婚し富良野に移り住んで5年目の冬の大晦日に破水を起こし、雅子は緊急入院した。わたしは報せを受け取るとすぐさま知人の雪上車で病院に向かった。わたしを迎えてくれたのは泣き腫らした顔をした主治医たちと新生児集中治療室に入れられた、ものすごく小さな女の赤ん坊とかたく目を閉じたまま、2度と動かなくなった雅子だった。最悪の報せに足下から崩れ落ちた。あれほど待ち望んだ命は愛した命と引き換えに手に入ったのだ。
しばらく経って看護師はわたしと赤ん坊を対面させた。赤ん坊は透明のケースに管を繋がれたまま目を閉じている。わたしはその赤ん坊に深い恨みを覚えた。わたしは雅子の命と引き換えに子どもが欲しかったわけではない。もういっそ全てを放り投げてアイスランドに帰ろうかとまで考えた。だがそれをすれば不仲の父親に「それ、見たことか」と鼻で笑うだろう。それはプライドが許さなかった。だけどこんな恨みを抱えて雅子を殺した子どもを育てるなんて……
その時だ。赤ん坊が目を開けた。マスカット葡萄のような緑色の瞳ーーーアイスランドの父と同じ目がわたしを見つめて口を開けて顔をくしゃくしゃにした。手は管を掴んでぎゅっ、と離さない。その力強さは生きる意思表明だった。わたしは平手打ちされたようなショックを覚えた。1500gも満たない赤ん坊は母親を亡くしても生きようとしている。それなのに自分はどうだ。全てを放棄して逃げるなど、聞き分けのない子どものように赤ん坊を母親殺しと恨むなどどうかしている。
わたしは涙を拭って初めて笑んだ。あの子は紛れもなくわたしの子だ。わたしは娘を日本でもアイスランドでも生きていける立派な女性に育て上げると雅子に誓った。
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