屍の付添い人

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屍の付添い人

 空虚の暗闇から、松明の灯りが近づいてきた。  規則正しく跳ねる水しぶきの音が辺りに聞こえ始める。足下の水面には微かに波紋が立って、誰かが舟を漕いでくるのが判る。やけに水音が響いて聞こえるのは、ここが洞窟のような空間であるからだ。  桐夏(とうか)はくつろいでいたのを、背筋を伸ばして身構えた。  やがて松明で薄気味悪く照らされた一そうの舟が、姿を現した。  冷一(れいいち)の舟だ。  舟は、桐夏の座っている石組みの護岸の船着き場にコトンと当たって、少し退いた。  すると、松明の明かりの中から一筋の縄が投げられた。岸に繋げという事だろう。桐夏は立ち上がり、近くにあった杭に縄を掛けた。 「お早いご到着で冷一殿」  桐夏は舟の主に声をかけた。にわかに、明かりに照らされて幼げな顔が浮かび上がった。 「おや、初めて見る顔ですね。今日からここに?」  桐夏は彼の幼さに少し驚いた。長年この波止場で"送り"をしていると言うから、てっきり髪の白んだ老人だと思っていたのだ。歳は十代半ば位に見えるが、声はすっきりと低く一つひとつに重みを感じる。黒とも青ともつかない色の無地の股引きにゆったりとした"送り"の法被を羽織った少年は、そう高くもない背でいよいよ子供に見えた。  桐夏は名を名乗った。冷一も名乗った。  冷一は舟の舳先を蹴って岸に上がると、松明を取って桐夏に渡した。そして暗闇の先を見つめてひとこと言った。 「今日はどなたでしたっけ」 ・・・  桐夏は目が覚めてから、ずっとこの暗闇の中で過ごしてきた。前は一企業の若手社員として奮闘していたが、会社が火事になり、そのまま煙りに巻かれて息絶えた。桐夏は死ぬ間際の事を鮮明に覚えている。非常口にたかる他の社員たちに押し退けられて倒れた時に、天井に燃え移った炎が覆い被さってきた。避ける間もなく炎を浴びた。その時喉に熱風を吸い込み、呼吸が出来なくなった。だんだんと遠退いていく意識の中で、桐夏は死を知った。  桐夏という名は、目覚めた後につけられた名だ。前の名は昔の記憶のように遠くにあって思い出せない。ただ、目覚めた時、傍に居た優しそうな老人が、桐夏という名で呼んだために、そう名乗っている。  しばらくすると、黒い背広を着た一人の男が歩いてきた。背中に鉛の(おもり)でも背負っているかのように重い足取りで歩んでくる男は、辺りをあちらこちら見回しながら、ようやく松明の火を頼りにこちらまでやって来た。  桐夏は戸惑った。今日が初の仕事だったのだ。いざ付き添う相手を前にすると、教わった事が頭から真っ白に吹きとんでしまう。深い皺が刻まれた顔には精気はなく、目もともぽってりとたるんでいる。老人は青ざめた肌に橙色の光を浴びて益々不気味な出で立ちを増した。 「貴殿、名は?」  まごついていた桐夏を見かねたのか、冷一が話した。 「夜見成(よみなり)と言うそうです」  老人は言うと、冷一の隣りに棒立ちしていた背の高い桐夏を怖がってか、身を亀のように縮こまらせた。 「そう恐れる事はありませんよ。私どもは、貴殿をあちら側へとお送りするだけですから」  冷一は老人に人懐っこく笑いかけた。桐夏も努めて笑ってみせた。  それでも夜見成と名乗った老人は、辺りの虚しいまでの暗さに落ち着きを忘れて、そわそわとしている。  無理もない反応だった。桐夏も冷一も、ここに来た頃、ここが何処なのか判らなかった。漆黒の中、松明の火を印に波止場まで来た経験がある。  とりあえず彼方人(かなと)を舟に乗せなければ、何も始まらない。桐夏は足下を灯りで照らしながら、夜見成を舟に乗せた。その後を追って冷一も櫂をとった。  冷一は、護岸を突いて岸を離れた。舟はゆっくり、ゆっくりと進みだした。暗闇の中、酸漿の実のような灯りは此方を遠ざかっていく。対岸は漆黒の中。  夜見成は、もと居た岸を舟の先に座って不安そうに見返している。だが、あっという間に岸は見えなくなった。  冷一が漕ぐ櫂が受けと擦れて舟を僅かに震わせた。 「では、始めましょうか」  桐夏は岸が見えなくなると、待ち兼ねたように口を開いた。 「夜見成殿、ここは何処か理解りますか」  夜見成は無言でかぶりを振った。 「何故ここにいるのか、理解りますか」  夜見成は一度開きかけたが、すぐに口をきつく結び直した。 「貴殿は、死んだのですよ」  それを聞いた夜見成はゆっくりと頭を垂れ、膝に乗せた手がズボンを強く握りしめた。 「ここは彼方(あちら)へと屍を渡す大きな河の支流でしてね、まあ一刻もあれば、次の舟に乗れます故、ひとまずは安心されますよう」 「私は死んだのですね」 「はい」 「妻は」 「判りかねます」 「息子は」 「判りかねます」 「孫は」  桐夏は首を横に振った。 「死んでから、どれくらい経ちましたか」 「ここはそういった類いの時間の概念がありません。永遠に同じまま続いていきます。ですが目覚めるまでの時は、個人差がありますから」 「数年の場合もあるし、中にゃ500年くらい経ってから目覚めた彼方人も居りますぜ」  冷一の低い声が桐夏の後ろから飛んだ。冷一は見えない対岸を見据えるように遠くに目を向けていたが、耳はこちらの会話を聴いていたらしかった。 「──死んだんですね」  桐夏は下を向いたまま、顔を上げようとはしなかった。ただ、夜見成の体が小刻みに震えているのは見てとれた。 「私の仕事は、上の御方(おんかた)に貴殿の生前の所業をお伝えする事です。この舟で渡される貴殿は"彼方人(かなと)"と呼ばれます。私はその付き添い人という立場にあります」 「何だか高瀬舟のようですね」  そう言った夜見成の声は揺れていた。桐夏は少しばかり同情したくなった。  彼が生前何をしていたのかは、知らない。だが、小さくなった背中を見ていると、どうしても先を聞く気が起きなかった。冷一はそんな空気の中でも場に合わない笑みを浮かべて櫂を漕いでいる。 「あなたは──」  唐突に夜見成は声を発した。そして、顔をやっと上げた。しかしその顔は、桐夏の思っていたのとは全く別の表情を提げていた。  笑っているのである。  裾を握りしめて、笑いを堪えていたのだ。  にわかに、桐夏は自分の浅はかさを思い知った。 「何がおかしいのです」  桐夏は顔をしかめた。 「いやぁ、失敬失敬。随分と清々するもんでしてな、厄介事の種が消え去るのは」 「どういう事です」 「あなたは、私の生前の所業を聞きたいと申したな」  桐夏は頷いた。 「そう大した事ではないのですよ。厄介事の種と申しましたが、実のところ、それは忌々しい家族の事なのです」 「何故家族が忌々しいものだと思うのです」 「付き添い人とやら、考えてご覧なさい。  私は記憶によると、何処かの医者をやっていたようでしてな。それはそれは評判の良かった事と受け止めている。家内とは腐れ縁からの結婚でした。互いに好いていた。3年経って息子も授かった。それから流れて孫もだ。とても順風満帆な生活をしていたのですよ。幸せだった、と言って良い。  ですがね、私が医者である以上、患者の生命というものは助けねばならない。そして、私は家族にまで気を配るほどの器を持ち合わせていなかったらしい。  私は患者を優先しました。  10年、町から町を歩いて回って、ほとんど家には帰らなかった。そしたらどうでしょう。家内は他の男と繋がっていたじゃあないですか。息子は失業して私の脛をかじっていたし、孫は非行に走っていた。息子の嫁は、私の貯金を使って何やら変な商売をしていた。  失望にも程があるってものです。挙げ句、私は帰る場所すら無くなった。  あの人らはね、私を追い出したんですよ。使うだけ使って、金だけ貯めさせて」 「だから貴殿は家族が忌々しいものだと思うのですね」  複雑な話は、桐夏の好むところではない。だが、桐夏は夜見成という彼方人の本質を見定めなければならない。 「ええ、笑えてくる話でしょう?」  夜見成は腹を抱えて笑い出した。可笑しすぎて涙まで滲ませている。桐夏は黙って次の言葉を待った。 「だからね、やってやったんですよ。全員」  夜見成が放ったひとことは、多様な意味をとれた。だが、桐夏には、あるひとつの予測と、否定がすぐさま浮かんだ。 「というと──」 「家内はね、少し肥えていたものですから、要らない肉を落として、細身になってもらいました。結構痛がってましたよ。麻酔なんてしませんでしたから。そのまま子犬並の大きさにまで小さくなったら、顔からは血の気が無くなってましたな。さぞ苦痛でしたのでしょうな、顔を、おかしなくらいに歪めていましたから。繋がっていた殿方には殿方から渡された婚約指輪ごと送って差し上げましたよ。  息子と嫁は面白かったですよ。嫁の浮気を息子に仄めかしたら、本当か、とか怒鳴って、その場にあったハサミで、まるで針山に無数の針を刺すように、ぶすり、ぶすり、と、刺しましたよ。その後、怖じけづいて私に助けを求めて来ましたが、嫁を刺したハサミを無言で渡したら、そのまま自分の喉元に刃を突き立てて押し込んだんです。血飛沫が吹き出る様は、医学校で習ったものより、良い経験でした」 「──!?」  桐夏は言葉に詰まった。言い表しようのない怒りが込み上げた。が、冷一は相も変わらず、笑みを崩す気配はなかった。 「孫はね、少しばかり見逃してあげようと思いまして、ひとつ、薬品倉庫から贈り物をしました。ちょうど18歳になったから、大人のお年玉と言うことで芳香剤を贈りましたよ。そしたらね、もっとくれ! ってしがみついて来たものですからね、可愛い孫の頼みとあっては断る訳にも参りません。もう一月分処方しました。前のより特段に強いのを。  人というものはおもしろいですね。こうも簡単に崩されるなんて」  夜見成は、尚も笑い続けた。声をあげて、涙を流した。水面には、そんな彼の姿が、ゆらゆらと揺れていた。笑い声は、夜の底に響く。  桐夏には、目の前に悪鬼が居るのではないかと思えた。人の形を型どった人ならざるものが。化けの皮を被り現(うつつ)に顕現した悪鬼は、偽りの愛で人を欺き、弄び、最期には生命をいたぶって殺めたのだ。 「夜見成殿、その言葉に嘘偽りは侍りませぬな」 「この地で、この身で、あなた様方を欺いて何の得がございましょうか、桐夏殿、冷一殿。全てはありのままです」  夜見成は、桐夏の憤りに満ちみちた眼の奥を覗くように、真っ直ぐと見つめて微笑みかけた。桐夏は今すぐにでも夜見成の胸ぐらを掴みあげて、すぐそこの深い水底に放り込みたかった。だが、付き添い人たるもの。私情を挟んではならない。 「その後どうなりましたか」  桐夏の怒りを察したらしく、冷一が訊いた。依然、笑みは崩さない。 「──随分と冷静なのですね」  夜見成は少し間を空けた。 「そうですね。我々のご時世じゃあ警察がいましたから、捕まって裁判になりました。判決は執行猶予なしの終身刑でした。お陰さまでこの通り、老衰死ですよ」  夜見成は肩を竦めてみせた。  桐夏は夜見成の生前の報いを当然と考えた。その上で、全く反省の色がない夜見成に如何ともし難い嫌悪感を感じた。桐夏は問い掛けた。 「貴殿は現にて既に、己の犯した罪の報いを請けている。しかし、改心はしていないようでおられる。何故、そのように平然と笑っていられるのです。貴殿は尊い生命を無惨にも奪った。人を殺める事に躊躇いは無かったのですか」  夜見成を目の敵にしている桐夏だったのだが、まだ、夜見成の人としての心への希望を捨て切れなかった。ここで夜見成が「あった」と、ひとこと言えば良いだけの話だ。それで人の心がまだある事を証明できる。桐夏ほ半ば、すがるのに似たような気持ちになった。 「何を改心する必要があるのでしょう。私はあやつらを改心させてやったのです。有り難く感謝されても良いくらいでしょうに」  その時、桐夏は夜見成に飛び付いた。胸ぐらを掴み、力ずくで引き起こした。そして、桐夏の額が夜見成に当たるくらいまで間近に夜見成を引き寄せ、睨み付けた。夜見成は桐夏の力に抗う事もなく引き起こされた。しかし、振り放そうともせず、腕を垂れた。 「あんた、人の生命を何だと思って──!?」  桐夏が拳を振り上げた。が、その瞬間、その拳を小さく華奢な手が覆った。  冷一の右手だった。  力が入っている訳でもなく、ただ拳の上に乗せられているだけなのに、不思議と腕に入っていた力が抜けていった。そのあまりに軽い抑止に殴る気力を削がれてしまったのだ。 「夜見成サン。あんた、少し疲れたようだね。ちょいと横になって休むといいよ」  冷一はそう言って、夜見成の眼前で左手を止めた。すると、夜見成は眠るようにその場に座り込んで瞼を閉じた。 「桐夏殿、乱暴はなりませんな。常に平静でいなければ、付き添い人のお役目は務まりませんよ」  そう宥められて、桐夏は拳をゆっくりと降ろした。 「すみません。ムキになってしまって」  ──沈黙が流れる。  櫂から雫が落ちて、空洞にこだました。舟は惰性でしばらく進んでいたが、ゆっくりと減速している。  微動だにしない桐夏は、顔を俯かせて自分の服の裾を握りしめた。 「で、どうするんですかい?」  冷一にそう問われて、桐夏は冷一の方を向いた。冷一は首を傾げ、にやけながら桐夏を見つめていた。暗がりに際立って明るい松明(たいまつ)のせいで、冷一の顔がますます際立って見えた。  桐夏は振り返り、夜見成の小さく丸まった寝姿を束の間見おろした。 「決まりました」  そう聞くと、冷一はますます笑みを深くして、短く「さいで」と応えるのだった。 ──────────  舟は元居た岸に戻って来た。  桐夏が先に岸へ上がり杭に綱を掛け、冷一はその後岸へと降り立った。桐夏の首筋を生温かい風が通り過ぎる。 「あれで良かったんですかい? 桐夏殿」  冷一が松明を取り外してこちらにかざした。桐夏は振り向いた。 「良かったとは?」 「夜見成サンを地界へ堕とした事に決まってるじゃあないですか」  桐夏は明らさまに怪訝な顔をした。冷一は続ける。 「あそこは、咎人が往く地です。千の試練と万の苦行が待ち受けていて、それらを乗り切ったとしても、二度と平界に戻る事は叶わない。転生など以ての外。普通では畜生ですら天界にお幸(ゆ-往く-)かせになるのに、何故、彼の者を地界へ、と思いまして」  冷一は畏まって視線を下げた。桐夏は、ますます疑念を深くした。何故、冷一は桐夏の下した処遇にここまで食い下がるのか。 「冷一殿。まさかとは思いますが、あの者に、転生の道を示せば良かったと仰りたいのですか?」  冷一は大袈裟に身振り手振りで否定した。 「いえいえ。俺は桐夏さんの裁きを尊重致しますとも。ただ──」 「ただ、何です。はっきりと仰って下さい。私よりあなたの方が長い」  冷一は顔を桐夏に真っ直ぐ向けた。暗い底にあって朗らかなくらいににこやかである。 「では。彼の者は、己の一族を皆殺しにせしめました。言うなれば、生を奪ったのです。しかも驚くべき残忍さで、です。妻を切り刻んだのち姦通していた愛人へと送りつけ、息子を籠絡して嫁を殺させ、自ら自殺の道を選ばせた。孫には哀れにも一生を無駄にしてしまう快楽を覚えさせて堕落させた。なるほど、残酷で卑劣な腐れ外道ですな。  しかし、です。彼は涙を流した。自分の行いに呵責の念があったのです」 「少し待って下さい。あやつが涙を流したのは人を殺める事が可笑しくて堪らなかったからではないですか」 「そうとも取れますな。ですが、彼の者の涙は、己の罪を悔いての事であると思うのですよ」 「なぜそう思えるのです?」  冷一は頭を掻いた。 「あの人、俺が、その後は? と訊いた時、ひとこと、冷静なのですね、と漏らしました。ここで俺は思ったんです。わざと桐夏さんを怒らせたのではないかと」 「私は自分の仕事を一切明かしてはいません。ただ、付き添い人としか喋っていない。第一、私を怒らせて何の得があると言うのです」 「ええ、確かにそうですな。しかし、彼はとっくにあなたの役目を察していたようですよ?」  冷一は桐夏に松明を持つよう言うと、送りの法被を脱いで片手に持ち、着物の襟を正した。二人は闇の中を一路、役所に向かって歩き始める。今回付き添った彼方人の報告をしに戻らねばなならないのだ。 「夜見成さんはこうも言ってました。この地で、この身で、あなた様方を欺いて何の得がございましょうか、と。この地で、という言葉から、どうもここがどういう所か理解していたようですし、この身で、というのからは、自分が裁かれている身であるというのを解っていたように思うんですよ。  ここからは俺の見解なんですがね、彼は目覚めた時にこの地がどういう所か悟ったんです。どうして解ったのかは俺の低能じゃあ判りゃしませんが、偶にそういう彼方人が居るんですよね。で、です。彼はあなたに、わざと自分を卑劣な人間だと思わせる事にしたんです。  何故か。  彼には足りなかったのですよ。罰が。彼は罪と同じくらいの罰を欲したんです。  現世にて罪を犯した夜見成サンは、その罪の重さを理解していた。その上で、終身刑という刑罰が軽いと考えたのです。彼の思考じゃ、死刑は恐らくもっと軽いと考えたでしょう。彼の時代の死刑は苦痛が少ないからです。  終身刑になっても尚、罰を負っている実感のなかった彼は、死後、ここに来て好機だと踏みました。  (うつつ)じゃあここは三途の河と呼ばれているようですから、彼は地獄とやらにも繋がっていると思ったんです。地獄といえば、煉獄や針山です。それ以上だってあるかも知れない。ここで上手くやれば、生前に負いきれなかった罰を受けられるかも知れない。そう思った彼は、あなたを上手く怒らせて、地界往きの割り符を手に次の舟に乗った。結果、夜見成サンの思い通りになったわけだ。彼は地界で終らぬ苦行をこなさなければならない。でも、それさえも彼は当然と考え自ら進んでいわゆる地獄往きを選んだ。  つまりはある意味で良識人だったわけです。  長く医者をやっていた訳ですし、善人とも言えましょう。  もしも彼の家族が彼を裏切っていなければ、彼は人々に慕われる医者であり続けたでしょう。  彼が流した涙は、可笑しかったからではない。真に己の罪を悔やんでの涙だったのではないか、と思います」  桐夏は絶句した。自らの裁量が誤っていたのだと思い知った。一時の感情に流されて冷静さを欠いた事によって、人の死後を決定する大きな判断を違えてしまった事を後悔した。自分は善人を地界へと送ってしまったのだ。桐夏の背筋に寒気が走った。自分が下した裁きが如何に安直で稚拙だったか。腹の底からムカムカと気泡が湧き上がるような気分になった桐夏は、そのあまりの気持ち悪さに吐き気を覚えた。 「桐夏殿、これはあくまで俺の見解です。付き添い人でもねえ俺の意見になんて、耳を貸す事はありません。あなたは夜見成サンが地界往きに相応しいと判断した。そして夜見成サンも地界へ送るよう仕向けた。ある種、利害の一致です。悔やむ事などありませんよ」  桐夏は冷一の深慮に畏敬の念を抱いた。話した言葉の一語一句を逃さず吟味し、その裏に隠れた話し手の本質を読み解く力に感服せずにはいられなかった。長年の経験と持ち合わせた才覚が、桐夏のとは比較にならない程の冷静さを生んでいる。それでいて考えている事を表に出さない精神の強さが桐夏には羨ましかった。同時に何故、冷一が付き添い人のお役目を任されていないのか、ふと疑問に思った。 「では、冷一殿だったらどう裁かれましたか」  冷一はひょいっと着物の袖から腕を抜いて懐で組んだ。 「俺ですか? 俺なら天界へ送りますね。そっちの方が、彼には辛いでしょうから」  冷一は肩を竦めて狭い歩幅で足踏みをする。そういえば辺りにはひんやりと冷たい風が吹き始めていた。河を離れれば、ここはただの大きな洞穴(ほらあな)に過ぎない。じんわりと湿った空気が耳元を吹き抜ける。  二人の松明の灯りはゆらりゆらりと、何も見えない闇の中を遠ざかっていった。
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