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「ねえ、覚えてる?」
隣りに立った妻が話し出したのは、先程の会話の続きだ。一体、いつの話をしようとしているのか。イルカの生態の話なんて、何度聞いても覚えていられる気がしない。だとしても、覚えていないなんてストレートに言えるわけもない。
「何を?」
こういう時は、無難が1番。
「ったく、ただでさえオープン初日で忙しいんだから、サボってんじゃねーよ」
「すみませんってば。話の長いマダムに捕まっちゃって」
ああいう話は、客前でするもんじゃないんだけどなあ、と慌ただしく荷物を運ぶスタッフの背中を眺める。前に立つ客のスマホがカメラからSNSの投稿場面に移ったのは、気にしないようにしよう。
「お父さんの話よ」
「館長さんと旧友だったっていう?」
学生時代の義父は、海洋生物にのめり込んでいたという。新たにオープンしたこの水族館の館長は、大学時代の同輩にあたるのだと譲ってもらったチケット片手に自慢していた。ところが、虫垂炎で入院。幸い軽症だったものの、今朝は病院の抜け出しを謀る羽目に。しっかり義母に制されてしまい、チケットがこちらにやってきたわけである。「たまには恋人気分で」と孫を抱いた姿には、お礼より先に「お見事」と拍手してしまいそうだった。背後で精神的にやられた病人が見えたので。
「そう。さっきのイルカのプール、館長さんが拘ってリクエストしたみたいで」
「マジか」
デザイナーさんも大変だな。近代的な展示が目玉の水族館で、イルカの水槽に違和感があったのはそのせいか。カラーリングもレトロというか、平面的というか、地方の古くからある水族館みたいな。派手なジャンプが少なかったのも、そのせいだろうか。
「なんでも、館長さんの尊敬している先輩?がよく話してた水族館に似せたかったんだって」
「へえ、じゃあその先輩?さんは義父さんの先輩でもあるわけ?」
「みたいよ。父さんとはまた違ったみたいだけど」
自分と「違う」先輩を慕っていた館長さんと仲良くなったのは、同い年だからか。
「...人間ってフクザツだな」
「でしょ?」
その先輩、後ろの紳士だったりしてな。そんな冗談、流石にここでは声にできないので、「あれ」と指差す妻の話に耳を傾ける。内容は右から左でも、憲明に話す彼女のことは交際当時から面白く思っている。
「今度は圭太も連れて来ようね」
「いいけど、ウンチクはほどほどにな」
彼はまだ、キレイとすごいで十分だろう。
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