某水族館の記念日小話

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「ねえ、覚えてる?」 あの人にそう尋ねたら、覚えてるって言ってくれると思うの。だけど、覚えて無くても覚えてるって言ってくれそうな人だから、本当のところはわからないわね。そんな優しいところが好きだったの。...いえ、主人じゃないの。かといって、嫌らしい関係でもなくて。結婚前に出会って、好きになった人。 私、結婚する前までずっとこの近くに住んでいたのよ。だから、オープンした時の感動は、今でも覚えてるわ。帰省すれば子どもを連れて来たから、ここは私の人生が詰まってる。大袈裟だなんて思わないわ。特にイルカショーが大好きだった。飛び上がるイルカの曲線が美しくて、友人と濡れながら会場を後にするのが誇らしかった。「一張羅なのに」って親に叱られても、恐くもなかったわ。 小遣いから入園料を出すには安くなかったから、毎回が特別だったの。ある時も友人と約束をして、気合いを入れて入り口で待ってた。でも、声を掛けてきたのは、知らない男の人。...謀られたのよ。私も同じ事をしたことがあるから、仕返しだったのね。確かそのあと2人は結ばれたんだから、許してくれても良かったのだけど。 声を掛けてきた彼は、眼鏡を掛けた丸坊主で、見るからに真面目そうな人だったわ。学ランの校章で、彼が優秀なのはすぐにわかったし。...でしょ?だけどその人、ちゃあんと私の名前を知ってたの。 「水族館の好きな女の子が居るから、案内してやって欲しいと言われまして」 ですって。言ったとおりの目的で来たことは、最初の水槽の前に来てすぐにわかったわ。小さなお魚を前にして、長々と喋り出すんですもの。今になるとじっくり聞いておけばと思うけれど、当時は彼の圧にびっくりするので精一杯よ。だけど、熱心に喋る彼に 「私は綺麗とか素晴らしいで十分ですよ」 とは言う気にならなかったの。...そう。気に入ったのよ、彼のこと。気づくのにもそう時間はかからなかったわ。 「これから試験勉強に専念して、春には遠くで進学するけど、夏にはまた帰ってくるから、その時にもう一度ここで会いましょう」 ってイルカの飛沫に濡れた彼に真顔でそう言われたときには、私も同じ顔で「はい」と返事しましたから。その後、互いを指差して笑いましたよ。「せいぜい、風邪などひかぬように」、と。 ...いいえ。約束の夏は来たんですよ。伸びかけの髪も、赤いチェックのシャツも似合って無くて。お喋りはより長くなっていて、進学先でたくさんお勉強をされているみたいでした。もういよいよ、私の頭では理解できません。だけど、魚を見ていた輝かしい瞳がそのまま私を見てくれる度に、喜びで胸が溢れそうでした。前と同じようにイルカの飛沫で濡れた彼は、今度も真剣にこう言ったんです。 「今自分は海洋生物の勉強をしていて、その成果をぜひあなたにも見て欲しいんです。次はぜひ、一緒に来てくれませんか」 ...ええ。私も今聞けば、そう思いますよ。でも、もっとたくさんのお魚を見られるとしか考えなかった当時の私は、「ええ、ぜひ」って答えたんです。彼がえらく喜ぶものだから、どうしたものだろうってびっくりしちゃったんですよ。ひどい話でしょう。 そう、ひどい話です。約束の3回目は、来ませんでした。いえ、行かなかったんです。あれきり、彼と顔を合わすことはしませんでした。あのすぐ後、結婚の話が決まったんです。親が決めた話でした。実家に住み込んでいた、医学生と。...主人です。もう亡くなって10年になるかしら。少女の私にも優しく数学を教えてくれた面倒見のいい人でした。皆が良い縁談だと言うので、私もそう考えました。相手もそう思ってくださるというのは、私にとって良いことでしたし。そうしていよいよ、私は彼との約束を誰にも打ち明けられなくなりました。逃げるように家を出て、たとえ連れ戻されたとしても、約束を果たそうとした方がずっと誠実だったことでしょう。 彼にとっては忘れた方がいい話なのに、覚えていて欲しいと思うんですよ。私にとっては胸の痛む話で、でも綺麗な思い出ですから。ほんとうに、ひどい話です。
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