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「引き上げて」
私は指示を下す。Xが死んだとしても、代わりはいくらでもいると言ってしまえばそれまでだ。だが、出来れば優秀なサンプルであるXを失うことは避けたい。それが、私たちプロジェクトメンバーの総意でもあった。
だから、私たちはXの意識が完全に「死」を認識する前に、『異界』からXの意識を引き上げる。目には見えない命綱を手繰り、私たちの前に横たわる肉体に、意識を呼び戻すのだ。
「引き上げを完了」
「意識体、肉体への帰還を確認」
寝台の上に横たわっているXの体がびくりと震え、その目がかっと開かれる。荒い呼吸がこちらの耳まで届く。私は横たわったXを見下ろして、言う。
「X。……あれ以上『潜航』を続行するのは不可能と判断して、引き上げたわ」
Xは私の声を聞いてやっと状況を理解したのか、激しく瞬きをしてから体を起こそうとして、顔を顰めた。意識体の痛みを引きずっているに違いなかった。肉体にダメージがなくても、意識体が負った傷はこちら側に戻ってきてからも感じられるものであるらしい。スタッフたちがXの頭に取り付けたコードを外すのを横目に、私は言葉を続ける。
「ただ、まだ得られた情報は少ない。そして、当該の『異界』は今のところ安定してこの世界の側に存在している。……つまり、続けての『潜航』が可能ということよ」
これは珍しいパターンだ。通常、『異界』はこの世界に近づいては離れるを繰り返しており、ひとつの『異界』に潜れる時間は限られている。だが、今回の『異界』は現時点ではまだ続けて潜れるだけの距離を保っている。
「意識体の回復を待って再び潜ってもらうわ。いいわね」
Xはまだ痛みにわずかに表情を歪めながらもこくりと頷いた。Xは極めて従順なサンプルだ。従順すぎるほどに。
そして、再びの『潜航』が行われることになったのは、翌日のことであった。
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