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発端「たろ」
「たろ、たろや」
藤白検校は、いつも中庭の見える座敷に、琵琶を抱えて座っておいでになることが多かったように思います。
「お呼びでしょうか、検校さま」
藤白検校のもとに出入りしていたのは、わたしだけではありませんでした。上は元服を迎えた武の者から、宮廷楽師を志す者、貴族、平民、そしてわたしのように、親に捨てられその日暮らしをしている子どもまでもを、藤白検校は出向いた先々で拾ってきては住まわせる、わたしに言わせれば、少々おかしな趣味を持っておいででした。
わたしは藤白検校の言うところの、「たろ」でした。犬の名前ではありませぬか、と申したことがありましたが、藤白検校は「何か問題でも?」と閉じた瞼をわたしの方へと向け、笑んでおりました。
わたしは「たろ」となりました。
わたしの、お役目というのでしょうか。それは藤白検校の琵琶を聴き、感想を述べることでした。藤白検校は目開きに琵琶をさせることを好まぬ性質でしたから、糊口をしのぐために教えるだけで、正式に取る弟子は、皆盲目の者でした。
そしてわたしがなぜ拾われたかというと、「目開きだったから」と仰いました。
「なぜわかるのですか」
「盲人は顔を見て話さないものです。目開きは声がまっすぐ飛んでくる。我々は少し曲がって話すので、区別がつくのです」
「なぜ琵琶を教えてくださらないのですか」
わたしも藤白検校の音の虜になった一人でした。
この頃のわたしは藤白検校に、琵琶を教えてくれとしつこくせがんでおりました。藤白検校はそのたびに、「目開きの音は聞くに堪えぬものですよ」と皮肉を仰り、わたしを諌めました。
その日、藤白検校が厠へ立った時でした。傍らに置いてある琵琶と撥が目に入ったのは。滑らかな木肌は藤白検校に長いこと抱かれた痕跡を物語っています。何だか胸騒ぎがし、わたしはそろそろと惹かれるまま、それに手を伸ばしました。魔が差したのだと思います。思わず、藤白検校に抱かれ続けた琵琶に触れてみたくなったのは。
ころりとした胴体を、まだ年端のいかぬ身体に抱きかかえ、見よう見真似で支えてみました。思ったより重く、誤って絃に触れると振動音のようなものが出ます。一度指先で絃を全て押さえて消音したのち、一絃に触れ、撥で弾いてみたところ、べおん、と音が出ました。
不器用で聞くに堪えない無様な音でしたが、わたしは初めての試みが上手くいったことに気を良くし、藤白検校が帰ってくるまでに少しでも音を出そうと頑張りました。琵琶を抱えたことのなかったわたしが音を出せたと知ったら、きっと藤白検校も、わたしに才能を見るかもしれないと思いました。
べん、べべん、とさまになった音が出た頃、藤白検校が厠から戻る気配がしました。
「検校さま、あの……っ」
顔を上げたわたしが見たのは、藤白検校の青ざめた怒りを孕んだ顔でした。
『藤白検校の琵琶に触れた者はいない』
なぜその噂が広まるのか、わたしは今まで理解しませんでした。
しかし、藤白検校が嫌悪感を露わにこう吐き捨てた時、わたしはその真の意味を悟ったのです。
「出て行きなさい、盗っ人……!」
瞼の裏で怒りの炎を燃やしながら、藤白検校は言いました。そのまま迷いなく畳にいざり、近寄ったかと思うと、わたしの前に座り、「琵琶を」とわたしから琵琶を取り返し、「撥を」とわたしから撥を取り上げ、その場で構えると、べん!とひと鳴りさせました。
その音には、憤怒が込められていました。
なぜわかったのか、今考えると不思議です。しかしわたしは横っ面を叩かれた時よりも心に痛みを感じ、そのまま屋敷の外へとまろび出ました。情けない気分でした。調子に乗った己の未熟が恥ずかしく、疑問だらけの心に、あの音が鋭く刺さります。なぜ藤白検校は、あれほどまでに怒ったのでしょうか。盲人の僻みなのかもしれないと思い至った頃には、涙を流している己を知りました。哀しくて、情けなくて、とても帰ることができないわたしは、ただ都大路を歩き続け、いつしか貴族の屋敷のある辺りへときていました。
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