49人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「ねえ、覚えてるの? 今日が何の日か」
ユサユサと揺さぶられて、微睡の淵に無理やり連れだされた。
眠りの森に来た急な来訪者の声は鬼嫁。
いつものように呆れた冷たい声で。
「覚えてるなら、さっさと起きて。片づけなきゃなんないのに」
ああそうか、6月、衣替えの季節。
我が家ではいつもこの時期にタンスの中身を総入れ替えする、その作業の日だったっけ。
「覚えてるって。でも、もうちょっとだけ、」
言いながらまた眠りの森に倒れ込もうとした俺の耳に、「いつもそうよね」と蔑むようなため息と舌打ちが聞こえてきて。
バタンと乱暴な音を立てて、寝室が閉められたのがわかった。
チッ、なんだよ、と心で毒づきながら少し覚醒。
「ママー、これも片づけちゃう?」
「そうね」
「リイちゃんのも?」
「そうよ、ママはママの! ケイくんはケイくんの! リイちゃんはリイちゃんのを片付けようね!」
「パパのはー?」
「パパは大人だもの! 自分のは自分で片付けられるでしょうよ」
はぁ?! なんだよ、それ!
聞こえよがしの嫌味! もういい、絶対手伝ってなんかやんねえ!
今日は一日不貞寝してやる!
そこに愛はあるのか? ねえな、うん、もうずっとねえわ、色々と。
保育園児の年子二人を抱えて、妻のアイが大変そうなのはわかっている。
でも近所に妻の実家もあるし、お義母さんも、手伝ってくれているから大丈夫。
二年前、アイは都心にある昔働いていた会社に復帰をし正社員となった。
すげえよな、17時まで仕事して、帰ってきてから子供らを保育園に迎えに行って、飯作って風呂入れて寝かしつける。
いつも完璧なアンドロイドみたいで、すっげえタフ!
それに引き換え、こっちはいつもクッタクタだよ。
残業残業、残業という名の接待とキャバクラ。
だって若い子は可愛いもん、アイと違って俺に優しいし。
どうせ俺がいなくても家の中はアイが回してくれてるし、安心安心。
女房の尻に敷かれる程度がちょうどいいんだよ、アイだってきっとそう思ってる。
日曜日なのに、いつも寝ている亭主。
たまの日曜ぐらい子供と遊んであげてよ、腹立つわ、ぐらいのダメ亭主が一番でしょ。
その内、またウトウトと眠りの森を彷徨った俺が。
「じゃあね、今日中に出しておいてよね」
というアイの声と。
「じゃあね、パパー」
「バイバーイ、パパー」
子供らの元気な声に現実に引き戻されたのは、もうすっかり閉め切ったカーテンの隙間から西日が射す頃だ。
スーパーにでも出かけたか?
今日中に出す? ゴミ?
生ゴミって明日じゃなかったっけ?
起き上がり一つ伸びをして、三人が出かけた後のリビングの扉を開けた。
「あ、れ?」
ガランとしているのは三人がいないせいではない気がした。
テーブルの上に置かれた紙には、『離婚届』。
アイの署名と証人にお義母さんとお義父さんの名前と捺印。
そうだ、先週の日曜日だった。
やはり眠りの森を彷徨っていた俺にアイツは告げたのだ。
『こんなんじゃ、あなたはいてもいなくても一緒よね』
結婚記念日を忘れてキャバ嬢と遊んだ翌日、家族サービスで動物園に行くはずだった約束を破った俺は夢の中で聞いた。
『来週、実家に帰ります、それでいいわよね? もう』
眠さのあまり俺は。
『わかった、わかった、来週な。覚えておくわ』
と、いつものあしらう台詞を……。
全てを思い出して、力無くその場に膝から崩れ落ちた。
――覚えておけばよかった――
最初のコメントを投稿しよう!