覚えておけばよかった

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「ねえ、覚えてるの? 今日が何の日か」  ユサユサと揺さぶられて、微睡(まどろみ)の淵に無理やり連れだされた。  眠りの森に来た急な来訪者の声は鬼嫁。  いつものように呆れた冷たい声で。 「覚えてるなら、さっさと起きて。片づけなきゃなんないのに」  ああそうか、6月、衣替えの季節。  我が家ではいつもこの時期にタンスの中身を総入れ替えする、その作業の日だったっけ。 「覚えてるって。でも、もうちょっとだけ、」  言いながらまた眠りの森に倒れ込もうとした俺の耳に、「いつもそうよね」と蔑むようなため息と舌打ちが聞こえてきて。  バタンと乱暴な音を立てて、寝室が閉められたのがわかった。  チッ、なんだよ、と心で毒づきながら少し覚醒。 「ママー、これも片づけちゃう?」 「そうね」 「リイちゃんのも?」 「そうよ、ママはママの! ケイくんはケイくんの! リイちゃんはリイちゃんのを片付けようね!」 「パパのはー?」 「パパは大人だもの! 自分のは自分で片付けられるでしょうよ」  はぁ?! なんだよ、それ!  聞こえよがしの嫌味! もういい、絶対手伝ってなんかやんねえ!  今日は一日不貞寝してやる!  そこに愛はあるのか? ねえな、うん、もうずっとねえわ、色々と。  保育園児の年子二人を抱えて、妻のアイが大変そうなのはわかっている。  でも近所に妻の実家もあるし、お義母(かあ)さんも、手伝ってくれているから大丈夫。  二年前、アイは都心にある昔働いていた会社に復帰をし正社員となった。  すげえよな、17時まで仕事して、帰ってきてから子供らを保育園に迎えに行って、飯作って風呂入れて寝かしつける。  いつも完璧なアンドロイドみたいで、すっげえタフ!  それに引き換え、こっちはいつもクッタクタだよ。  残業残業、残業という名の接待とキャバクラ。  だって若い子は可愛いもん、アイと違って俺に優しいし。  どうせ俺がいなくても家の中はアイが回してくれてるし、安心安心。  女房の尻に敷かれる程度がちょうどいいんだよ、アイだってきっとそう思ってる。  日曜日なのに、いつも寝ている亭主。  たまの日曜ぐらい子供と遊んであげてよ、腹立つわ、ぐらいのダメ亭主が一番でしょ。  その内、またウトウトと眠りの森を彷徨った俺が。 「じゃあね、今日中に出しておいてよね」  というアイの声と。 「じゃあね、パパー」 「バイバーイ、パパー」  子供らの元気な声に現実に引き戻されたのは、もうすっかり閉め切ったカーテンの隙間から西日が射す頃だ。  スーパーにでも出かけたか?  今日中に出す? ゴミ?  生ゴミって明日じゃなかったっけ?  起き上がり一つ伸びをして、三人が出かけた後のリビングの扉を開けた。 「あ、れ?」  ガランとしているのは三人がいないせいではない気がした。  テーブルの上に置かれた紙には、『離婚届』。  アイの署名と証人にお義母(かあ)さんとお義父(とう)さんの名前と捺印。  そうだ、先週の日曜日だった。  やはり眠りの森を彷徨っていた俺にアイツは告げたのだ。 『こんなんじゃ、あなたはいてもいなくても一緒よね』  結婚記念日を忘れてキャバ嬢と遊んだ翌日、家族サービスで動物園に行くはずだった約束を破った俺は夢の中で聞いた。 『来週、実家に帰ります、それでいいわよね? もう』  眠さのあまり俺は。 『わかった、わかった、来週な。覚えておくわ』  と、いつものあしらう台詞を……。  全てを思い出して、力無くその場に膝から崩れ落ちた。 ――覚えておけばよかった――
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