恋人編 1

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恋人編 1

「父さん、そんなに落ち込むなよ。な、酒でも飲んで元気出してよ…ほら、飲んで」 そう言って、耀は冷蔵庫から出した缶ビールをテーブルの上にコトンと置いた。 「まどかさんもさ、色々考えた末の結論だったんだろ?あの人もまだ若いんだし、仕方ねぇよ。 …まぁ、俺も多少はショックだけどさ。父さん黙ってりゃ男前なんだから、この先またいい人でてくるって」 ソファに力なく座り、膝の上に肘を乗せ掌で頭を抱えるようにしていた京助が、やっと顔を上げた。 「…耀。悪ぃな…お前だってキツいのに、気ぃ使わせてさ…」 京助はそう言って耀の髪を優しくぽんぽんっと撫でるように叩くと、目の前に置かれた缶ビールを一気に飲み干した。 「それよりお前、親に向かって『黙ってりゃ男前』ってなんだよ」 と、日に焼けた精悍な顔立ちを歪める様にニヤリと笑って「メシ、食いに行くか」と言った。 その日、瀬能京助は自分の身に起きた出来事を受け入れられずにいた。 全身の力が抜け、立ち上がることも話す事すらできない位、憔悴しきっていた。 7年前から結婚を前提に付き合っていた戸部まどかに、突然別れを告げられたのだ。 理由は―― 京助と耀を支えていく自信がなくなったこと 自分の親を納得させられない現状に疲れたこと(7年も付き合っていて籍を入れなかった理由はコレ) そして、自分の心の迷いを埋めてくれる相手に出会ってしまったこと 要するに、バツイチ子持ちのおっさんなんかより、自分だけを見てくれる相手の方が良くなった、という事だ。 京助はどうしてこんな結果になってしまったのか理解できなかったし、まどかに対する愛情もなくなってはいなかった。もしかしたら気が変わって、また自分の元に戻ってくるのではないか、とまで思っていた。 もし自分に非があったのなら直す努力もしようと思ったし、まどかの望む事であれば叶えてやりたいという気持ちもあった。そして、まどかにもそれを伝えたのだが、彼女から返ってきた言葉は思いがけないものだった。 「あなたは私を一番には愛してくれないでしょう?」 自分のことを全て理解してくれていると思っていたのに、そうではなかった。 7年もの間、本当の家族だと思って生活したし、まどかも母親の様に耀に接してくれていた。これから先ずっと自分と共に耀の成長を見届けてくれる相手だと信じていた。そしてまどかも耀の成長を楽しみだと幸せそうに話してくれていた。 だからこそ京助は何の危機感もなかったし、耀とまどかを天秤に掛ける様なことをしたつもりはなかった。自分の中で、二人に向ける愛情の種類は違っていたはずだった。 でも、まどかはそれでは満たされてはいなかったという事なのだろう。 京助の気付かないところで我慢をしていたのかもしれない、自分だけを見てほしいという思いを持ったまま、今まで過ごしてきたというのか―― そして思う。 自分はまた、耀から母親という存在を奪ってしまった現実。 一度目は耀がまだ3歳になったばかりの頃。 若すぎた夫婦の結婚生活は、学生結婚だったこともあり、お互いの幼さと我儘ですぐに破綻してしまった。 母親には養育するだけの収入はなく、まだ大学生だった京助が父親の元で働きながら育てるという形で親権を持つことになった。 生活も落ち着き、少し気持ちに余裕ができた頃まどかと出会った。そしてお互いに将来を見据えて日々を過ごしていた…はずだった。 そして今回。 自分の気づかないところでいつの間にかできていた綻び。 また耀を悲しませてしまったことに、自己嫌悪しか浮かばない。 それなのに耀は、気丈に京助を励ましてくれる。 本当は自分より傷付いているのではないか―― 京助は、男としても父親としても何て頼りない人間なんだと、心のそこから情けない気持ちがこみ上げて、気付かぬうちに顔が歪み、より一層深く気分が滅入る。 京助の心に根付いた傷は、時間がたっても、簡単に消えるものではなかった やりきれない思いを抱えていても、毎日陽は昇りそして沈む。 ようやく自分の気持ちに向き合い、現実を受け入れ始めたのは、 まどかが京助たちの下を去って半年が過ぎた頃だった。
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