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「…社長、気の毒すぎて見てられませんね」
先ほど京助に釘を刺していた事務員の女性が、心底心配しているのがわかる口調で翔太に小声で話しかけた。
翔太も「そうだねぇ……まぁ今日はとことん飲ませてやろうか」とふざけた口調ではあったが、表情はやはり心配を表すものだった。
半年前、京助の身に起きた出来事を社内で知らない者はいなかった。
誰もが京助とまどかが一緒になるものだと思っていたし、会長夫婦が娘のように大切に扱っていた事も知っていた。そして何より幼かった耀がとても良く懐き甘えている姿を見ていたので、ある飲み会の席で酔った京助が泣き笑いのような顔でぽろっと零したときは、その場にいた人間全てがそれを信じられず、そして居た堪れない気持ちになったのだった。
最初の頃でこそ落ち込んだ表情をしていた京助だったが、周囲の腫れ物に触るような雰囲気に申し訳なくなり、仕事をしている間は吹っ切れた様な態度を見せる努力をしていた。
そのうち従業員たちの京助への接し方も元に戻り始めていたが、恋愛話やまどかに繋がるような内容の話はしないという暗黙のルールがいつの間にかできていた。
――たった一人を除いては。
「お疲れ~っす。京さんはどう?相変わらずナヨってる?」
そう言って事務所に入ってきたのは小池怜、23歳。
瀬能建設に勤めて7年目の大工だ。
15才の時、両親が不慮の事故により急逝し親戚に引き取られたのだが、あまり親交のなかった身内ということもあり、邪険に扱われる日々を送っていた。怜は肩身の狭い思いをするくらいならと、辛うじて通わせてもらっていた高校を中退し、住み込みで働ける瀬能建設にアルバイトとして入社を決めた。怜を引き取った親戚はほっとしたような顔をして帯が付いたままの札束を1つ渡し、今後いっさい面倒は見れないと言い放った。それは怜が受け取るはずだった保険金の一部だということは怜もわかっていたが、これ以上の関りを持つのは自分も嫌だったので、何も言わずそれを受け取り親戚の家を出た。
瀬能建設に雇われてからは、それまでの窮屈な生活が嘘のように充実していた。
当時社長だった京助の父、瀬能喜一郎は、呑み込みが早く要領のいい怜の仕事ぶりを気に入り、持てる職人の業を惜し気もなく怜に教えた。妻の綾子も自分の息子の様に、京助は弟の様に怜を可愛がり、人見知りの激しかった耀も懐いて、まるでもとからいた家族の様に怜は瀬能家に馴染むことができた。
3年程はアルバイトとして働いていたが、技術もある程度身に付いたということで、正式に社員として雇用されたのだが、京助とはほとんど家族のような生活をしているということで、今でも怜だけが社長とは呼ばず、『京さん』と呼んでいる。
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