ハロー・ママ・グッバイ【短編】胸糞注意

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 冷たい。左耳をドアにぴたりとつけて外の音を探る。  ゴォゴォと自分の血液が流れる音が骨を伝わって聞こえてくる。ハァハァという自分の浅い呼吸音が頭蓋骨を伝って左耳から、そして空気を伝って反対の右耳からも聞こえて煩い。そんなものを聞いている余裕はないのに。  集中して意識を向けるとかすかに響くドン、ドンという音がゆっくりと近づいて来る。恐怖の音。拳が汗でじとりと湿る。あの分厚い靴下を履いて階段を一歩ずつ登って来る足音。1秒に1つの足音。その音がする度に心臓がビクリと跳ね上がり恐ろしさに皮膚がざわめく。あたかも皮膚の下を虫が這いずり回るようなおぞましさ。  足音はもうドアの前。恐怖で呼吸が止まりそうだ。叫び出しそう。逃げ出したい。けれども逃げ出すわけにはいかない。いざとなったらこのドアが開かないよう体で押し止めなければいけないから。向こうはこのドアの鍵をもっているんだから。 「武信(たけのぶ)、朝ごはんどうするの」  扉の向こうから聞こえた声に体の緊張は最高潮に達する。血圧が上がりすぎて首筋や耳の中が高炉のように熱い。ドクドクと心臓の拍動音が頭の中に響き渡る。肩がガクガク震える。ともすれば崩れ落ちそうな膝を掌で押さえる。 「ぃ、いらない」  頭を少しだけドアから少し離して声がなるべく震えないよう喉に力を込めて、ようやく小さな声でそう答える。ドアから少し離れて聞こえるように。体はドアにピッタリつけたまま。全てが凍りつく時間。 「仕方ないわね」  無限のように感じる沈黙に耐えた後、ようやくその声がして、またドン、ドンと足音がゆっくりと遠ざかる音を耳が捉えてようやくほっと息を吐く。その途端膝の力は全て抜けてドアの前にペタリと座り込み、全身から湧き出た汗でパジャマがびっしょりと濡れた。掌が真っ白になっている。また貧血だ。震える手で常備している鉄分多めの野菜ジュースを飲んで健康補助食品をかじる。
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