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ねぇ、覚えてる?あなた。
昔、ずっと昔、一緒に歩いてみたいとあなたが言っていた場所に来ています。
あの頃、あなたとはよく飲み明かしてたよね。週末に神保町の縄暖簾や高円寺の啄木亭にふらりと出掛けては閉店までブンガクの話をしていた。
そのまま、どちらかの下宿になだれこんで、朝までブンガクについて話し込んで、いつの間にか夜が明けて、ーじゃあね...ーって何事もなく別れるのはしょっちゅうだったよね。
あなたは啄木が好きで太宰が好きで、青春の頃は筋金入りの文学青年で彼女と心中未遂までしたって言っていた。
昔の恋を引き摺って太宰と自分を重ね合わせていたっけね。
そんなあなたが変わったのは、仕事で『青年の船』に乗って一年、日本を離れてた時だった。
外国のご令嬢に見初められて、
ー彼女に相応しい男になるんだー
って言っていた。
私はあなたに好意はあったけど、自分の人生を生きたかった。私は臆病者で、あなたの弱さを背負う勇気が無かった。
だから、あなたの決断に何も言うことは無かった。幸せになって欲しかった。
そして.......あなたはブンガクを捨てた。
手元にあった詩や小説の本を全て捨てて、彼女との暮らしを始めた。
それがどんなものだったか、私は知らない。互いに職場が遠くなり、それぞれが選んだ道を歩いていたから。
それは十年近くもの間、恋にすることの出来なかった私達の関係の必然だから。
お互いが幸せなら、そのうちまた、どこかで会うこともあるかもしれないと思っていた。
けれど.......
あなたは逝ってしまった。
四十半ばの若さで病に倒れて、再会を果たせぬままに、あなたはこの世界から立ち去ってしまった。
人づてに伝えられたそれは私にはとても淋しかった。仕事でかなり無理をしていたと、体調を悪くしていたと聞いた時、一歩を踏み出せなかった自分の勇気の無さを悔やんだ。
あなたはとてもナイーブで真面目な人だったから、妻となったその人のために、その人を幸せにするために頑張ったんだと思う。
それがあなたにとって幸せだったのか不幸だったのか、私は知らない。
それはあなたにだけしかわからないことだから。
あなたが逝ってから、もう二十年が過ぎた。八つも年下だった私ももうじき還暦に手が届く。
仕事に追われながら、雑事に煩わされながら、結局、私はブンガクを捨てられなかったらしい。
暇に飽かせては気晴らしがてらに雑文を書き散らしている。
あなたのあのはにかんだような笑顔と柔らかい丁寧な口調で、私の駄作を辛辣に批評してもらえないのがとても残念でならない。にこにこしながら手厳しい指摘をしてくる眼鏡の奥の穏やかな眼差しに会えないのはとても淋しい。
ねぇ、覚えてる?
私は今、あなたが大好きだと言っていた歌碑の前に独りで立っている。
ー小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ......ー
千曲川の流れは今日も穏やかだよ。
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