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奏多
ヒナコが言うにはこうだ。
俺は、数年前に死んでいる。死の世界の住人だった。
そして、生きている時、ヒナコと付き合っていた。
ピーポーピーポー
ある日車にはねられたらしい。即死。
ヒナコはすぐに病院に駆けつけてくれた。
「奏多!奏多ぁ‼︎」
泣きじゃくりながら俺を呼んでくれたらしい。
「奏多、行かないで。私も連れていって…。それか、私が___…」
「そっちに行って、一緒に___…」
そうしてヒナコは自殺して俺を追いかけてきた。けれども、死の世界の俺は生きることへの希望のみが残って、ヒナコへの恋愛感情を落としてきてしまった。ヒナコのことなんて覚えていなかった。
死の世界へ俺を追いかけてきたヒナコは、悲しんだ。悲しんで、悲しんで、叫んで泣いたらしい。毎日毎日俺の名前を呼んで、生きている時の記憶を話して、また付き合えるように努力をした。でも、俺は全く思い出せなかった。思い出そうとしなかった。
ヒナコはさらに苦しんだ。けれども、いつしか俺の『生きたい』という想いを大切にしてくれるようになった。
(奏多が幸せになるのなら、私は___…)
ある日俺は、生と死の狭間である鏡が歪んでいることに気づいた。まるで空間が歪んでいるかのような。
そこを、通ってしまったんだ。
タブーだった。
それはわかっていたはずなのに、あまりにも生きたいという気持ちが強かった。
そうして、俺はまた生きている東條奏多として日常を過ごした。死の世界のことなんて何も覚えていなくて、ヒナコのことなんて何も覚えてなくて。ただただ楽しみと喜びだけの世界を走り回った。
ヒナコは俺のその姿を見て、悲しみと喜びの両方を持ったらしい。
俺が笑っているのを久々に見れたからだそうだ。俺が笑っているなら、離れていても構わないと思ったらしい。
しかし、狭間である鏡が許さなかった。俺の存在が生の世界を歪ませてしまう。そうなる前に俺を死の世界へ連れ戻さなければいけないと___…。
そして連れ戻す役割をヒナコが背負った。
「本当は普通に会いたかった。」
「私のことなんて覚えていなくても、ただ奏多に会いたかった。」
「奏多の笑顔を目の前でもう一度見たかった。」
その笑顔を壊すことが怖くて、俺に本当のことを言えずにいたらしい。
俺は、ヒナコに何を言えばいい___?
「お、俺がいけない行動をしたのか…。ヒナコは別に俺を脅かそうなんて思ってなくて、むしろ___…」
悲しく、苦しい想いをしたんだろう。
「奏多。」
俺を呼ぶその声は優しく、心地よかった。
「どんな世界にいても、私のことなんて思い出さなくても、奏多には笑ってほしいの。ここでの…、2回目の生の世界での幸せな記憶を持ち帰って、元の世界に戻ろう?」
『私のことなんて思い出さなくても』
きっとそんなの本心じゃない。でも、今までこうやって気持ちを押し殺してきたんだと思うと、俺はヒナコを愛おしく思った。
ぎゅ…
好きだった記憶が戻ったわけじゃない。けれども、話を聞いて、俺のために生きてくれて。そんなの…
「ありがとう…」
「か…なた…」
抱きしめた俺の腕の中で、ヒナコは泣いた。泣いて泣いて、俺の名前を叫び続けた。
「奏多!奏多!奏多ぁ‼︎」
ヒナコは最後まで俺を苦しめる言葉を言わなかった。
『好き』という一言を。
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