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エピローグ
事件が一段落した。いつもなら「飲みに行きましょうよ」と先輩を誘いたくなるが、今は早く寝て忘れたい気分だった。
「辛気臭え顔するな。事件が解決したんだぞ」
そう言いながら、先輩は清々しく缶コーヒーを飲み干した。
「後味悪すぎですよ、今回。ヒカルくんが可哀想でなりません」
「まあ、確かにな。自殺未遂は死ぬほど痛えらしいから」
「違いますよ。話を聞いてもらうために身を投げるとか、そこまで追い込まれていたなんて可哀想すぎます。先輩だって言ってたじゃないですか」
「ああ、あれか」
今度はタバコをくわえた。
「あれはただの再犯対策だ。今回は犯罪じゃねえがな」
「そうだったんですか!」
「再犯防止も警察の仕事だろ」
「そうですけど、……」
「……哀れむ気持ちがないわけじゃない。やつにはやつなりの苦しさがあったんだろう。でも冷静に考えれば、ただのかまってちゃんが構ってほしさに大事件起こしただけだ。すべてが分かった今となっては、正直迷惑としか思えない」
そう言う先輩は決して僕と目を合わせようとせず、煙をゆっくり吐き出した。
「彼はずっと暗闇の中にいたんですね」
「暗闇?」
「誰にも気づいてもらえない暗闇です。あの手紙を見るまで、警察どころか家族さえ身投げの原因が分からなかったじゃないですか。周りには暗闇に見えない、不思議な暗闇の中に一人だったんじゃないですかね。あの手紙はそんな暗闇からのSOS」
「随分詩的な解釈だが、妥当な表現だ」
「だから、考えてしまうんですよ――今回は誰が悪者だったのかなって」
今回の件には罪を犯した人間はいない。でも、悪は法に反するだけではない。倫理的な、もしくは人道的な悪はいつだって存在する。
しばらく黙る先輩に「再犯防止にも考えるべきなのかなって思って……」と言い訳のようなことを呟くと、先輩はタバコを口から離して煙を吐いた。
「悪は、中瀬ヒカルだろ。暗闇にいたと考えるなら、なぜやつは暗闇から手を伸ばさなかった? 伸ばせば届いたかもしれないのに――お前は?」
「……僕は周りにいた人たちが暗闇に気付いてあげなかったのが悪かったんだと思います」
こんな議論をしても答えは出ない。多分、どっちも悪くて、それが上手い具合にかみ合わなかったせいで起こった悲しい事件だったのだ。
「お前は優しいな」
先輩がぽろりと呟いた。
「あの被害者のこと、可哀想だと思ってやれるから」
「そりゃあまあ、身投げを考えるほど辛かったって考えると……」
「だけどな、多分やつを可哀想だと思ってくれるやつはそう多くない。構ってほしいから死のうとするなんて、第三者から見ればばかばかしい話だ」
「………………」
「やつの親は泣いていたが、迷惑なことをしやがってと怒鳴る親もいるだろう」
「……否定はできません」
「でもな、お前みたいなやつがいるからああいうやつが救われる――と俺は思いたい」
先輩は一度深くタバコを吸うと、灰皿にぐりぐりと押し付けた。
救われは、しないだろう。そこにいるだけでは、人は救えない。僕みたいに考える人がいて、その人が助けたいと行動するから人は救われるのだ――だから僕は救えていない。僕は警察官として事件を捜査して、その結果ああいう感想を抱いただけで、何もしていない。
「あ、そうだ。やつの目が覚めたら捜査結果の報告とか後処理とかをしないといけないんだが、やってくれないか? 来週から本庁の応援に行かないといけないんだ」
「分かりました」
「ちゃんとお見舞い持っていくんだぞ」
――ああ。まだ遅くないのか。
僕は「はい!」と返事をした――今日この人を誘えば、気持ちよく酔える気がする。
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