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櫻井と木下は一年前から同居を始めた。
ふとしたことがきっかけだった。
*****
雨が降っていた。
天王寺の歩道橋。階段を上がってきた警官に睨まれ、木下はいつもより早く歌い終えた。最後に歌いたい曲があったが、仕方なく帰り支度をしていたところへ少し酔った男が声をかけてきた。
「兄ちゃん、歌うまいな」
「あ、ありがとございます」
あんま金なくてすまんの、と言いながら男は木下に百円玉を手渡した。
「あ、いや、ええすよ。お客さん、一曲しか聴けんかったでしょ」
「ええねんええねん、こんなんしか渡せんでこっちが悪いわ」
ありがたく、その百円玉を木下は受け取った。
「兄ちゃん、プロなりたいよなぁ。売れたいなぁ」
酔いの入った会社員などが、上から目線で話しかけてくることがある。またか、と木下は嘆息をつきそうになったが、ふと、言葉尻の違いに気づいた。たいてい上から目線で言われるのは、「プロなりたいんか? 頑張りや」だ。同調するような口調は初めてだった。
「なりたいすね。売れんでもいろんな人に聴いてもらいたいすね」
木下がそう言うと、男は片付ける木下を手伝った。
「さくらい言うねん、俺。難しいほうの櫻な。兄ちゃんとおんなじで俺もな芸人やってんねんけど、鳴かず飛ばずでや。頑張ろうな、兄ちゃん。いつか俺らは報われるで」
櫻井は頬を赤らめたまま、ふらふらとそう言った。
同じ人種か。木下は嬉しかった。
一年路上で歌い続けてきたが、きっかけになりそうなものはない。かといって、手売りできるCDもない。作る金がないのだ。曲を配信するにも機材やらバソコンを買う金すらない。
「そうなんすね。芸人さんなんすね。すごいですやん。大会とか出るんすか?」
「誰にも見られへん予選までなら出てるで」
櫻井は自嘲気味にそう言って笑った。
「いつか、叶いますよ」
「せやな。とりあえず風呂トイレなしの四畳半から抜け出したいな」
櫻井が両手を上げて首をすくめた。
「はは、家があるだけマシっすよ。俺なんか家もなくて転々としてんすわ」
櫻井は木下の足もとを見た。靴がぼろぼろだ。髪も伸ばしているというより、伸びきっているといった方がしっくりくる。自分は底辺に近い貧乏だが、この歌うたいの兄ちゃんはもっとやなと櫻井は感じた。
「家出でもしたんかいな」
「はは。まあ、そんなもんっす」
つい二週間前のこと。櫻井は相方とコンビを解消した。殴り合いの喧嘩をし、相方は一緒に住んでいた部屋を出ていった。
目の前の歌うたいは、身なりは悪いが悪者には見えない。櫻井は暇すぎて話し相手がほしかった。酔いも手伝っていた。
「今日、雨やん。兄ちゃん、行くとこねえなら、今日はうちで飲むか?」
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