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そっとポケットの上から触れてその振動を確かめる。
「鳴ってますね。どうぞ。」
「……、すみません。」
バイブ音だけが響く気まずい沈黙を破ったのは、彼の方だった。
一言断ってから、少し距離を取ってスマホを耳に当てる。
"あ、奈良です。お疲れ様です。"
「お疲れ様。どうした?」
"ねえ、このビルでか過ぎません?"
「…え?」
ちょっと間延びしたような怠そうな声は、私と同じ部署の一つ下の後輩のものだ。
当然、新人として奈良が配属されてきた時から私が教育係を任されていたわけだけれど、この間の奏さんとのやり取りとか、割と情け無い姿もよく見られてしまっていて。
そういうのを間近で見過ぎたせいなのか、「榛世さんは世渡り下手ですねえ」が口癖の、要領の良さがピカイチの男に仕上がった。
そのことに頭を抱えていた私に「まあ仕事で結果出してくれんなら、そこまでのアプローチは何でも良いのよ」とあっけらかんと奏さんも評価していて、ぐうの音も出ない。
"榛世さん、聞いてます?"
「聞いてる。奈良はいつも報告の言葉が短すぎる。
ビルって何?」
"榛世さんは会話の流れを読む瞬発力が無さすぎる。○○さんのビルですよ。今ロビーに居るんすけど、エレベーターホールもなんか立派すぎて怖。というか警備員さんの顔も怖。"
「…奈良君はさっきから何を言ってるの?」
何故か前半、私に対する失礼な分析から始まった奈良の独白は訳が分からない。
"だからあ。今日俺も○○さんの近くで打ち合わせしてたんですよ。"
「…うん?」
"で、榛世さんに直ぐチェックいただきたい原稿があるので、折角だし俺もオープンオフィス?とやらを使わせてもらおうかなと。"
「……」
頭が、痛い。
この後輩は、何を軽く「お疲れ」くらいのテンションで提案してきているのだろう。
こめかみを抑えて、電話を持ったまま溜息を溢す。
私の周りは何故こう、振り回してくる人間が多いのか。
「あのねえ奈良。そんな簡単には利用出来ないの。」
"え、オープンオフィスなのに?
門戸は広くないと意味なくないすか?"
「…ああ言えばこう言う…奏さんに似てきたんじゃないの。」
"うわーそれは複雑。"
後で奏さんに言いつけておこう。
「ただでさえ取材でご迷惑をかけてるの。
原稿はデータで送ってくれたら済むでしょ?すぐチェックするから。」
"榛世さん、まじで頭カチカチだなあ。
そんな先輩を、このデキた後輩が癒しますから。
とりあえず一階まで迎えに来てくださいよ。"
「いや何で私が迎えに行くのよ。」
そうして休みなく無茶ばかり言う後輩に、こちらも休みなく突っ込んでいると、急に電話が切れてしまった。
なんだったのかと顔を顰めて画面をただ見つめていれば、すぐ側に居た南雲さんに呼びかけられる。
視線を向ければ、彼も何やら社用スマホを確認しつつ若干戸惑いながら、
「土方から今、連絡があって。
榛世さんの後輩の方と丁度一階で会ったから、今からオフィスまでお連れする、とのことです。」
「………」
そう報告をうけて、倒れそうになる。
あの後輩は、本当に遠慮というものを知らないらしい。
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