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彼に誘導されながら連れてこられたのは、1階下にあるチャットスペースだった。
このフロアを使用する家具の設計や開発チームの人達は、アイデア出しのために週に1回、長時間の打ち合わせがあるのだと、取材の時に設計部の方が話してくれたのを思い出した。
それが丁度今日のようで、見事なまでにこの空間には人が居ない。目の前のこの人も、それを知っていて連れてきてくれたのだと分かる。
「……榛世さん大丈夫ですか。」
「、すいません。」
いつだって心地よく耳に触れる声で尋ねながらゆっくり腰を折った彼と、同じ高さで眼差しが交差する。
垂れ流しのみっともない涙を隠したくて両手で目元を覆い隠そうとすると、それを予期していたようにそっと手首を掴んで引き剥がされた。
至近距離で確認した少し色素の薄い瞳は、不安の色が混ざっている。
こんな風にこの人が触れてくることは、今まで一度もなかった。
「昨日から、何かあったんですよね。」
「……きのう…」
「古淵から様子がおかしかったと聞いて追いかけようとしたんですが、丁度上司に捕まってしまって。
……後は流石にこれ以上は、踏み込みすぎかもしれないと躊躇する自分も居ました。」
切なく吐き出された本音に、彼の整った顔も歪む。
その変化に呼応するように心が細っていく感覚が、嫌と言うほどに告げていた。
もうこの人にも、自分自身にも。
____誤魔化すのは、限界だ。
「南雲さん、」
「…ごめん。でもやっぱり、我慢できない。
榛世さんが辛いなら、苦しいなら、その理由は知りたいって思う。」
こちらが伝えるべき謝罪と、真っ直ぐな気持ちを先に受けて、また涙が増えそうになる。
だけど、私もちゃんと伝えなければと唇を噛み締めてぐっと力を入れ直しながらゆっくり呼吸をした。
「昨日は、仕事で嬉しいことがあったんです。だから、心配いただくようなことはなくて、」
「……そうだったんですか。」
「あと今日は、その、ギャラリーの件で、」
「榛世さん。
それはご負担なら本当に無理しなくて大丈夫です。」
「ちがいます。」
はっきり示した否定は、ちゃんとこの人に届いているだろうか。
「……手伝いたいです。」
「え?」
「昨日、ギャラリーの担当者に会ってきました。
開示できる情報…つ、坪数とか、大まかな予算とか。リニューアルで望むコンセプトなども、私が聞ける範囲で収集してきました。」
『もし本当にリニューアルを請け負いたいと仰って下さってるなら是非一度、話をお聞きしたいですね。
他企業さんとの相見積もりになるだろうとは思いますが。
こちらとしても熱意を持たれてる企業さんにお願いしたいです。僕の連絡先は、どうぞご自由に先方に共有してください。』
ギャラリーの館長である小林さんは、元々うちの編集者だったと聞いている。定年後の再雇用として此処で働いているそうで、うちの会社をよく理解しているかつ、穏やかで話しやすい方だ。
きっとこのまま土方さんや南雲さんに直接話を繋いでも、不安な点は無い。
___でも。
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