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母はよく言った。
──自殺願望はスナック菓子と同じだ、と。
念入りにストレッチを行う自身の姿が鏡にうっている。脚を冷やさないようにとレッグウォーマーが必須の体は、まさに調教されたと言っても過言ではない。
バレリーナの意地とプライドが詰まったトゥシューズを鞄から取り出し、傷だらけの足を露出させる。爪先からの内出血、痣、血豆……体には血液というものが流れているんだ、とどこか他人事のように実感してしまう。テーピングを巻いても滲み出てくる赤色と鈍い痛み。
それはバレリーナとしての勲章らしい。
淡いシャンパンゴールドの色をしたトゥシューズに無理やりその壊れた足先を押し込む。女性的な可愛らしいリボンを結び、呼吸をひとつ吐き出した。幼い頃はこのトゥーシューズに憧れを抱いていたはずなのに……。
体に染み込んだその行動に嫌気が差す。
トゥシューズを足と一体化させるように、つま先立ちを何度か繰り返し、バレリーナとしての体を作っていく。
un、deux、trois。
基本の動きを確認して地に足をつける。
鏡の中にいるバレリーナに思わず溜め息を吐いてしまっていた。顔色が悪い……。
昨日眠れなかったからなのか。もう本来の自分の顔を忘れてしまった。元からこんな暗い顔付きをしていたのかもしれない。
母が、昨夜、自身が主演の舞台終わりに自殺をした。縊死だった。自身が女王として君臨する舞台の千秋楽。華々しい拍手に包まれ、沢山の祝いの花に囲まれた母はなにを思ったのか楽屋のドアノブで首を吊った。
第一発見者は私だ。
今でも憶えている楽屋の扉の重さ。扉は開かないのにドアノブは水平ではなかったあのきみの悪さ。大嫌いだった母が愛したバレエという舞台への賛美、それを懸命に考え出向いたのに、扉の隙間から見えたのは、ぶらんと垂れ下がった細い腕。
汗の匂いと化粧品の香り、そこに混じるアンモニア臭。いまでも言い表せない脳にこびりついて離れないにおい。
母は自身のキャリアに誇りを持っていた。それでも私が遺体を見て思ったことは、──やっとか。それだった。
バレリーナは努力を見せないの
美しさが芸術であり、華麗で優雅な姿を魅せる
同情されたらお仕舞い
そんな母の言葉が蘇る。彼女は完璧という言葉に雁字搦めにされた、奴隷のような人物だった。0か100、白か黒、最低か最高か、そんな乱暴な考えに母は従い続け、ついに死を選んだ。
呪縛のように私の耳元で囁かれるその言葉たちは、母の遺言だろう。
野心の強かった母が私を生んだ理由、それは理解できる。けれど、納得したくない。
最高のアーティストだったが、最低の母親だった。いつだって私を蔑ろにし、バレエを第一に考える。母にとってそんな人生は最高だったはずだ。
あの細い身体で、私の生命を育めたのはある意味奇跡だろう。一生を共にできる夫がいないのになぜ、母は私を産もうとしたのか。母がどんな思いで命を生み落したのか、私は納得したくない。
けれど、母が死を選んだ理由は大勢が理解し、納得できるんだろう。
アーティストのさだめだ。
「……すみません」
「あぁ…気が付かなかった。なに?」
「そろそろマスコミ用にコメントを出さなければならないのですが……」
自宅の地下に設けられたひと部屋。一面の鏡とバレエに必須であるバーだけが置いてあるそこに、ひとりの人間が現れる。母が絶対の信頼を寄せていたマネージャー。
彼女とはもう何年も共に過ごしてきた。家族のように親しくしている。
世界に名を轟かせたダンサーの死。閉演後、楽屋で自殺、というセンセーショナルな話題は既に報道されている。
唯一の親族である私を置き去りにして、世界は悲しみに暮れていた。素晴らしき孤高の天才があの世に逝ってしまった、と。
0か100の人間が自身の提供するアートに失望し、観客に同情されているという考えに取り憑かれた。無性に食べたくなるスナック菓子と彼女をかりたたせる死は等しく同じだった。
母の死因はプライドだ。
母の死に、アーティストの死に、人は美学を見出す。
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