濃霧

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 私達のもとへ料理が届く。 店員が机に料理を並べていく。 じゅーじゅーと脂が細かく跳ねる。 自然と頬が緩む。 唾液が滲み出し、口の中が潤う。 ふと、店員の顔を見た。 店員は綿素材のマスクを付けていた。 顔が小さいのか、顎下から下まぶたまですっぽりと隠れている。 化粧で目元の輪郭がくっきりしている。 「ごゆっくりどうぞ」 店員は言う。 その口の動きに合わせて、マスクが僅かに顎側へずれる。 店員の頬が見えた。 そこには、青黒く滲んだ痣があった。 私の瞳孔に緊張が入り、思わず、痣に集中する。 その痣は、左の下まぶたから頬に広がっている。 しかし、マスクにより、その痣の全貌がわからない。 暴力傷にも見える。 夫から暴力を振るわれているのか? それとも、病? 怪我? 生まれつきの可能性もある。 疲労? くまが、できているだけかもしれない。 私の脳内で様々な思考が現れては消える。 店員は私達の席から離れる。 気が付けば、私はその店員の背を憐れむような眼差しで見ていた。  食事をいただき始める。 次第に老婆の異様な出来事は記憶から薄れていった。 美味しいご馳走を私達は顔を見合わせて分かち合う。 私はぺろりと平らげ、妻と娘の食事を眺める。 妻の咀嚼する時の頬が膨よかに動く。 その隣で娘も咀嚼する。 娘の咀嚼する頬の動きが、妻に似ていることに気が付いた。 私はくすりと笑った。 妻は、きょとんとした疑問の表情を浮かべて、私を見る。 「いや、二人とも似ているなと思ってな」 私は答える。 「まあね、私達親子なので」 妻はもぐもぐと咀嚼しながら言う。 ふと、娘の食事を見ると、食器に人参が残っている。 「人参が残っているな」 私が言う。 娘が咀嚼しながら、上目遣いで私の顔色を窺う。 「食べないと元気な大人になれないぞ」 私は柔らかな口調で諭す。 「一つは食べなさい」 妻が言う。 「うーん」 娘は人参をフォークで刺して、口元へ近づける。 人参が近づくにつれて、娘の眉間にしわが寄っていく。 ぎこちなく、口が開く。 口の中に小さな舌が見える。 舌の全体が薄桃色で舌先は丸い。 きめの細かい舌の表面は舌苔もなく、潤沢な唾液に帯びている。 その小さな舌は口の中で左右に振り、暴れている。 口の中に人参を入れた。 娘は目をぎゅっと閉じて、顔の中央に向けてしわを寄せる。 渋い表情を浮かべながら、咀嚼する。 ごくん。 娘の喉から飲み込む音が聞こえる。 娘が、うわーっと口を開けて、苦い表情で訴える。 娘はすかさず、フォークを持ち、残りの人参を取る。 私と妻は娘の意欲に驚く。 しかし、驚きもすぐに笑いへ変わった。 娘は、その人参を妻のお皿へ、そろりそろりと持っていく。 そして、人参を妻のお皿にそっと置いた。 娘は妻の顔色をちらりと窺う。 人参を置いたフォークを素早く元に戻す。 再び人参を持つと、ゆっくりと妻のお皿に連れていく。 その人参も妻のお皿にごろんと置くと、素早く元に戻った。 私の眼差しに気が付いた娘はぎょっとする。 「今日はお出掛けだし、いいんじゃない?」 妻が微笑みながら言う。 「そうだな。全く、可愛いことするね」 私も笑みを溢して言う。 私と妻の笑顔を見た娘は明るくなった。  私達は食事を終えて、席で寛いでいる。 「これ、できるか?」 私は水が半分位入ったコップの縁を人差し指でなぞる。 高音がふわんとなる。 その光景に娘は目を丸くした。 「やりたい、やりたい!」 娘は椅子に座ったまま、臀部で跳ねて言う。 妻は、また始まったと言わんばかりに私を見る。 私は自慢げにグラスの縁を指でなぞり、音を出す。 娘は私に真似をしてグラスの縁を指でなぞる。 しかし、音が鳴らない。 私は、スプーンでコップの中の水を掬う。 「この水を指につけてからすると鳴るよ」 娘はスプーンで掬った水をちょんと指につける。 再び娘はグラスの縁をなぞると、高音が鳴った。 「おお、凄いね」 私はそう言いながら、グラスの縁をなぞり、音を出す。 「お父さんと音が違うの、なんで?」 娘も音を出しながら聞く。 「コップの中の水の量が違うからだよ」 私は答える。 私と娘の高音の響き合いが続く。 その音も、愉快な話し声が広がる店内では目立ってうるさくない。 「もう、うるさい!」 妻が目を細めて言う。 私と娘はぴくんと体を固めて、奏でるのを止めた。
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