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ある泉のほとりで
遠く隔たっているようで、すぐ辿り着ける国の、離れているようで、傍にある泉の話。
立ち込める霧は視界の全ては遮らない。霧は、泉のまわりにある原生林や山々や、その輪郭と色合いをうまく柔和させている。目の前の光景をむしろ美しく、ただ美しく見せ、旅人らを妖しげに誘っていた。
霧と凪は仲良くしていた。ここでは晴れやかな陽気よりも、閑寂とした空気の方が似合うみたいだ。快活な太陽が照らせば、すぐさま光が散り乱れる。目は眩み、むしろ何も見えなくなってしまうのだ。
この地をさまよう人々がいた。泉は確かに傍にあるはずなのに、なぜだか皆、さまよう。まるで、その事が辿り着くための条件であるかのように。
どうも旅人1人につき、いくつかのルートが用意されているようだった。そして旅人同士がずっと同じ道を往くことはない。すれ違った彼・彼女とは、二言三言交わして、すぐまたそれぞれの道を往く。去る背中を見て「ひとり」と呟く。同じ林道をそれぞれ歩んでいる意識だけが折り重なる……
この道のり。運良くすぐに辿り着けることもあれば、迷って引き返すことも多い。突然照り出した陽の光に身を包まれて強風に煽られたと思ったら、気が付けば寝床に運ばれていた日もあった。
こうして泉へと向かっている。なぜ向かうのか、その理由は誰にも知られていない。ただし信じられている説はある。きっと泉の美しさに導かれるだけ、そう、ただ向かわされているだけなのだ、と。おそらく往く理由なんてものは、この体の内に収まるものではないのかもしれない。
通り過ぎる木々たち。名の知れたものから、見たこともない枝葉や幹まで。
「木々は記憶だ」 そう聞こえてきたのは、泉の方角からか、それとも胸の内からだったか?
正しく残っていない曖昧な目印を辿って往けば、いつか見たような光景、はじめましての場所。それらをいくつもいくつも抜け、そして……
どうやら辿り着けたみたいだ、泉のほとり。その場所は、この一帯で最も寂静とした……もはや一切の音が消失したような場所。泉の最も深いブルーは水際を越えて、辺りの大地まで優しく照らしている。花崗岩たちも素直に青に染まる。
幾度と来ているわけじゃない。だからそれは懐かしい、色と感触と……音のなさ。欠けている色、欠けている音、なのに十全とした空間。
身を委ねるのに丁度良い岩肌があり、そこに寝そべる。「だれ」「なに」「どこ」「なぜ」そんな声らが身を潜める……
霧が移ろいゆくのを眺め、時間が消えてゆくまで待つ。そう感じるまでの時間なんてものは、消えてしまえばいっそう分からなくなる。
……
……
……
ふと、微睡みの深淵に幼い声が聞こえ、目を覚ました。泉の手前側、丁度霧が晴れている辺りに、小さな2つの人影を見つける。
〈やあ、また会えたね〉
愛しみをもってそう伝える。ピティという名の妖精と、アデューという名の精霊だ。ピティは女の子の姿をしている。アデューは少年の格好をしている 。しばらく人が訪れることがなかったのか、2人とも顔を赤らめ、一瞬もじもじして見せた。
そして音のない世界で、2人はなにするともなく遊び始めた。それはただ跳ねたり回ったりしているようにも、踊っているようにも見えた。たぶん名の付いていない遊びなのだろう。わたしは、その無邪気な姿に、ただじっと見入っていた。
脳裏をよぎる……2人はいったいどれだけの時間ここで暮らしているのだろうか。いったい何を待っているのだろうか。
なぜか、少しずつ、切なさが積もっていった。
いつしか、身を潜めていたはずの時間が、姿を現わしていた。それはここにずっと留まることを許さない。そろそろ行かなければならない時間のようだ。
わたしは立ち上がる。名残惜しさが脚を大地に縛り付けるようだった。凝然としていると、ピティとアデューはそれに気付き、彼らの方から別れを告げてくる。
ピティは歌うように咽び泣いた。
アデューは木陰で人知れず泣いた。
わたしは背を向けた。肩越しにピティとアデューが手を繋いだのが見えた。永遠に幼い2人。いったいこうして何人を出迎え、その数だけ見送ってきたのだろう。
〈大丈夫、また来るよ、そう遠くないうちに〉
精一杯の愛しみを込めて。込めたまま、一歩を踏み出した。
帰り道、泉に向かう旅人とすれ違った。わたしはそっと微笑む。同じ泉を目指している…… 愛しみに勇気が灯る。
すぐ辿り着ける王国の、すぐ傍にある泉の話
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