序章 値切りは連行の始まり

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序章 値切りは連行の始まり

【人間死ぬ気になれば、何でもできる】  そんなキャッチフレーズをよく耳にする。でも、いざ死を目前にしたら人は何ができるというのだろうか。  せいぜい無様に跪いて、涙を流しながら命乞いをする程度だろう。  アルベルティナことベルは、値切ったパンをぎゅっと抱きしめながらそんなことを思った。  肩でざくりと切られた撫子色の髪が秋風に吹かれ、ふわりと揺れる。けれど青碧の瞳は、微動だにしない。  瞬きを忘れてしまったかのように、ただただ目の前の光景をずっと写している。  【死】そのもののように黒光りするそれを───。  ここはメオテール国の端っこ、国境に面したケルス領都心のとある路地裏。そしてベルは現在、4人の男から拳銃を向けられている。  いわゆる洒落にならない状況ではあるが、こうなってしまった理由はわからない。  いつも通りパンを買って近道しようと裏路地に入った瞬間、ざっと足音がしたかと思えば、揃いの黒い詰襟姿の男達に拳銃を突き付けらてしまったのだ。  もちろん顔見知りなんかじゃない。  それに、そもそもこんな恰好をした人達をケルス領ではめったに見ることは無い。だがベルは彼らを知識としては知っている。  唯一国が拳銃の装備を認めている存在─── 軍人だった。  でもベルは、軍人から幾つもの銃口を向けられるという危機的状況を、自分から作った覚えは無い。……多分。  唯一思い当たることと言えば、ほんの5分前にパン屋で形の悪いバケットを値切り倒したけれど、代金はちゃんと払った。もちろん店主は代金を受け取った。  嫌なら売らなければ良いのに、しっかり「まいどっ」という言葉も店主は口にしたのだから、売買は成立している。だからやっぱり拳銃を向けられるいわれは無いはずだ。  ただ、そう主張したくてもできない。  なにせ唐突すぎる状況に思考が追いついていないのだ。弁明するにしたって明確な理由がなければ事態を悪化させるだけ。 (……それにしてもそこそこ人通りがあるはずなのに、誰も助けてくれる気配は無いなんて、世知辛いなぁー)  ひょろっひょろの少女がこんな窮地に立たされているというのに、通り過ぎる人達はベルに気付いても皆、見てはいけない何かを目にしたかのように足早に過ぎ去っていく。  そんな中、ベルは視界の端に映るパン屋に目線を固定する。  焼きたてのパンにしか見えないふくよかな店主は、いっそ拍手を送りたくなるくらいに忙しそうだった。ただし、店内に客は一人もいない。  でも、軍人がおっかない存在だという認識があるから、関わり合いたくないという街の人々の気持ちもわかる。  ベルとてこんな状況になっても、関わり合いたくないと思っているくらいなのだから。 (……さあて、どうしたもんだろうか。これ)  途方にくれながらベルはバケットを抱きしめる力を強める。  すぐにパリッと表面の皮が割れる音と共に大事なバケットが潰れる感触が伝わってくる。ちなみにこれは、ベルの一週間分の大事な食糧だ。 (もういっそ、このまま走って逃げちゃおうかな)  まるで悪魔のささやきのように、もう一人の自分がそう提案する。うっかり同意してしまいそうなほど魅力的なそれだった。  けれど、その思考が顔に出てしまったのだろうか、拳銃を向けている軍人の隙間から、一人の男が一歩前に出た。 「アルベルティナ・クラース。悪いが何も聞かずに、俺たちに付いてきてもらおうか」  人に命令をすることに慣れた、随分と横柄な口調だった。  それに冬の夕暮れのような黄色とオレンジ色の間のような瞳はとても鋭く、たとえ女子供であっても容赦はしないという厳しいオーラが滲み出ていた。  けれどこの男、大変美形でもあった。そして拳銃を手にしている者より地位が高そうな軍人だった。  すらりとした長身の体を包むのは黒の軍服は詰襟ではなく、長い上着の中はシャツとタイ。腕章もしている。  でも、軍人のトレードマークである軍帽は被っておらず秋の柔らかい日差しを受けて銀色の髪は眩しい程に輝いている。  ちなみに役職を示しているであろう茜色のタイは、緩く結んでいる。そういう着崩れも許されるほどの地位ということなのか。  ベルは短い時間でそこまで分析してみた。でも、そんなことが何の役に立つのかという突っ込みも入れてみた。   相手は軍人だ。しかも、問答無用で拳銃を向ける容赦の無い連中達なのだ。 「アルベルティナ・クラース。二度も、言わせるな」  苛立つ男の声がして、ベルははっと我に返った。  銀髪軍人と目が合った。  逃げたいという希望は、射貫くような眼差しを受けた途端、一瞬で打ち消された。  しかし気付けば、ベルはこの男に向かって口を開いていた。 「……あの、パンを」 「は?」 「……パンを返して来ます。だから」 「あんた何を言っているんだ?それはあんたが食べたくて買ったんだろう?なのにどうして返品するんだ?買ったところを俺は見ていたから、窃盗っていうわけでもなさそうだし」  一縷の望みをかけて、口にしてみた言葉はどうやら的外れだったようだ。  羞恥と後悔で更に身体が震え、ベルは唇を噛んだ。 「ま、パンのことはどうでも良い。とにかく俺たちと一緒に来てもらうぞ」  肩を竦めながらそう言った銀髪軍人は顎を、しゃくって更に奥の裏路地を進めと示す。  それは、有無を言わさない決定事項だと告げるものだった。
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