【私は】【俺は】─── この時をずっと待っていた

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 空き瓶や、かつてチラシか何かであったであろうゴミくずが散乱する裏路地は、表通りの賑わいが嘘のようにしんと静まり返っている。  そんな据えた匂いが充満する空間で、男の声は背後からでも鮮明に聞きとることができる。 「お前、アナベルティアだな」 「……そうだと言ったら?」  もったいぶった返答に、男は鼻を鳴らした。きっと小娘のなけなしの虚勢とでも思われたのだろうか。  ベルはそんなことを思いながら、ゆっくりと振り返る。  視界の先には灰色のフードを被った体格の良い男がいた。  鼻先まですっぽりと被っている男の顔は見ることができない。けれど、醸し出すオーラは善良さとは遠くかけ離れたもの。 (良くもまぁ、私を見付ける前に自警団に職務質問されなかったな。この人の運の良さを褒めてあげたいくらいだ)  男と対峙したまま、ベルは冷静に口元に笑みを浮かべた。  そして、こうも早くお目当ての人間に見つかることができた自分も、まぁまぁ運が良い。  けれど、ちょっとでも気を抜けば余計な邪魔が入ることをベルは身をもって知っているため、さっさと本題に入ることにする。 「あなたに付いていけば、フローチェさんに会えるの?」 「そうだ」  即答した男は「話が早くて助かる」と言いたげに小さく笑う。次いでゆっくりとこちらに近付いて来た。 「では、付いてきてもらおうか」  そう言って男はベルに手を伸ばす。けれども、 「触らないで」  ぴしゃりとベルはその手を払い落した。  そうしたのは無意識だった。でも親しくもなければ、まして好意すら持っていない人間の手が、己の身体に触れることを想像するだけで虫唾が走る。意識したとてきっと同じことをしていただろう。 (……触れて欲しい人と、そうじゃない人の違いがこうもわかるなんて)  こんな時なのに、ベルはいつの間にか変わってしまった自分に驚きを隠せない。  ただ、その変化に気付くタイミングは少々悪かった。  意識を他所に向けた途端、背後に人の気配を感じた。しまったと悔やむ間もなく、首筋に強い衝撃が走る。  自分を追ってきたのは一人ではなかった事に気付いた時には、もうベルは膝から崩れ落ちていた。 ***  ベルは夢を見ていた。  しばらく顔を合わせていない銀髪軍人が、自分に向けて何か言葉を紡いでいる。切実に、丁寧に、穏やかな表情で。  でも、ベルは聞き取ることができない。  何度も何度も聞き返すけれど、どうしても言葉として拾うことができない。 『ねぇ、聞こえないですよ。もっと大きな声で言ってください』  じれったい気持ちでそう言えば、レンブラントはふわりと笑って再び口を開く。 『俺はそんなあんたを守る。軍人である俺じゃなく、ただのレンブラントとして』 (あ、この台詞……私、覚えている)  すんなりと耳に届いたそれは、あの日─── クルトからさんざん殴られ蹴られた傷を手当した時に言ってくれたもの。  レンブラントのたくましい腕の中で聞いたのを覚えている。  (……そうだ、あの日からだ)  それに気づいた途端、トクンと心臓が小さく跳ねた。  彼の腕の中で眠った後、ずっと感じなくなっていた痛みが戻ってきたのだ。  それともう一つ。心の中に名前を付けることができない感情が芽生えて、住みついてしまったのだ。  ベルは夢の中で舌打ちする。よりにもよって、自分とは一生縁の無いそれを押し付けられるなんて、と。  でも、この感情は心の一番奥に根っこを張ってしまって、容易に引き抜くことはできない。もう自分の一部になってしまったのだ。  夢と現の狭間にいるベルは、ぎゅっと己の胸を抑えて渋面を作る。 (でも……でもさぁ……このタイミングでそれに気付くのって、フラグでしかないじゃん!)   そんなことを心の中で叫んだと同時に全身に強い衝撃が走り、ベルはあまりの痛みに目を開けた。 「ーーおはよう、ベル。やっと目を覚ましたわね」  視界に飛び込んできた真っ赤な唇を意地悪く持ち上げる女の顔を、ベルは知っている。  ただまさかこんな場所で再会するなんて思ってもみなかった。  床に転がるベルを見下ろす女の名は─── フロリーナ・エドゥ・クラース。現ケルス領の辺境伯だった。
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