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第9話 居心地の悪さ
翌朝、俺はふわりと香るコウちゃんの香水の香りで眠りから覚め始めた。目を開けるとコウちゃんではなく理桜がいた。
「お、起きた」
寝起きとはいえ、昨日の衝撃のシーンが目に焼き付いている俺はどんな顔をしていいのか分からず布団にもぐる。
理桜は心配そうに声を出した。
「大丈夫? まだ熱っぽい?」
「――いや、もう平気だと思う」
「なんだよ、じゃあ起きろよォ。もうすぐ仲居さんが布団上げに来ちゃうぞ」
ぼやけた視界でははっきりとは見えないが、十八年一緒にいれば理桜がどんな顔をしているかなど手に取るように分かっている。
「んー? 熱あんの?」
言って、理桜は俺の額に手を当てた。手首のあたりからコウちゃんの香水の香りが強く香って、寝起きの鼻孔へ強制的に入ってくる。
一瞬眉間に皺を寄せた俺に「なんだよ熱計ってあげてんだけど」と理桜が唇を尖らせた。
「――手を当てて体温分かんの?」
「え? わかんない」
アホな返答で俺が吹き出す。肩を震わせる俺を見下ろしつつ、理桜が「はい! 起きろ!」と俺を足蹴にした。
着替えて居間に行くと、コウちゃんは旅館で貰った観光パンフレットを眺めながらくつろいでいた。俺に気付いて向けた表情は、心配そうに窺うものだ。
「尚桜、おはよう。体調はどうだ?」
おれはただ苦笑いを浮かべて「もう大丈夫……ごめんね」と謝るしかない。顔をまともに見られない。
それなのに「理桜に対してどういう気持ちでいるのか」を問いただそうとする『おにい』が喉元まで上がってきている。
理桜は後ろからついてきてコウちゃんの前を通り広縁の一人掛けソファに座った。
黒い縁取りをしたような外窓の向こうでは、朝露に濡れた緑が澄んだ空気をまとって庭を輝かせている。額縁の中の理桜は、昨日よりも大人に見えた。
「おにい、ちょっとちょっと!」
カメラを片手に俺を呼んで、昨日プロカメラマンに撮ってもらったという写真を見せてくる。
柊の尖る葉越しに真剣な眼差しを何かに向けるコウちゃんの横顔。
鯉にエサをやって笑う理桜の姿。南天の赤い実の小道を歩く二人の後ろ姿。
遠景が美しくぼやけて輝き、人物が主張されている。と思えば、次の写真は二人がややぼやけて、手前の南天の赤が栄えるものだ。あいまいな姿ですら、サマになっていた。
「すごいな。さすがプロだな」
俺は素直に呟いた。
理桜は大きく頷いて「見て、みてよこのコウちゃんとかすごくカッコイイんだから」と他の写真も見せてきた。
(分かってるよ、お前にとってはコウちゃんならどんな写真でも最高なんだろ)
昨晩胸の奥に突き刺さった大量の針は、心臓の鼓動に合わせて揺れた。釘を含んだ水風船のように、今にも破裂しそうな状態でそこに留まったままだ。
俺達はお膳に乗った手の込んだ朝食を食べ、温泉街から少し離れた海へ歩いて向かった。
潮の香が気持ちいい。さらりとした砂を踏むたびに足跡が残る。
「あー泳ぎたい!」
笑いながら言った理桜に俺が「泳げばいいじゃん」と吹っ掛けると、理桜は楽しそうに「冬ですけど!」と返して笑う。
わいわいやっている俺達の横からコウちゃんが優しく言った。
「夏にまた来て泳ごう」
理桜が弾かれたようにコウちゃんを見上げた。
その瞳は見たことのない輝きを得て、満足そうに細められ、そして当然のように笑みを浮かべる。
「うん!」
きっとあの頭の中は、夏の楽しいひと時を思い描いているのだろう。おそらく、そこに俺はいない。
俺たちは海へ行き、また温泉街を楽しんで、いくつかの温泉にも入った。ホカホカと暖まった身体から湯気を立てて移動する。
その後、コウちゃんがリサーチしていた街はずれの人気イタリアンでディナーを食べた。新鮮な海鮮をふんだんに使った料理は、育ち盛りの俺達の胃にみるみるうちに収まっていった。
冬の日暮れは早く、すっかり暗くなった道を宿に向かって戻る。ダラダラ歩きながらする気だるい会話は、男三人旅という感じでとても楽しかった。
提灯が揺れる静かな離れへ戻る俺達へ、門を掃除していた従業員が気付いて頭を下げた。
「おかえりなさいませ、温泉街は楽しめましたか?」
「ええ、海も温泉街も楽しかったです」
言いながらコウちゃんは俺達の背中を押す。まるで早く離れに戻りたいようだった。
「二日もお世話になってると、もう自分の家みたいな気がしてきますね」
そう言って爽やかに笑ったコウちゃんに答えて従業員が笑い声を上げ、また頭を下げる。
「ごゆっくりなさってください」
「はい、今日もよろしくお願いします」
俺はコウちゃんに押されながら離れの玄関を開けた。
入ってピシャリと引き戸を閉めるなり、コウちゃんが「さっみぃー!」と声を上げて身体を擦っている。
「ぶッフフフ!」
俺と理桜は吹き出して笑った。
コウちゃんはサムイサムイと言いながら靴を脱いで居間へ上がる。理桜は当然それについていく。
俺もそこに続きながら、今日一日忘れようとしていた感情が蘇るのを感じていた。
冷たく暗い廊下。
居間の中から漏れる光。
まぶたに焼き付いている、二人のキス。
「寒かったね。あーあったかい……暖房の下にいよ……」
「はは、ほんとだ、理桜の髪の毛凍ってるみたいに冷たいな」
「コウちゃんだって鼻が赤くなってる」
「だってほんとに寒いんだから仕方ないだろ」
二人の声――。
まるで変わらない、むしろ昔に戻ったような楽しい一日の最後がこれほど恐ろしいとは思っていなかった。
のろのろと居間に入る俺に、理桜は無邪気に「お茶入れるよ俺。おにいも座って!」と笑いかけた。
しばらく三人それぞれが好き勝手にしていたが、口火を切ったのはコウちゃんだった。
「じゃあ、俺はそろそろ風呂に入ろうかな」
理桜がピクンと反応して、寝転がっていた上半身を擡げると「お、俺も俺もッ」と乗っかった。
「え? 理桜、一緒に入る?」
「入るに決まってんじゃん!」
どう決まっているのか不明だ。
コウちゃんは笑顔で俺を見た。
「じゃあ尚桜もどうだ?」
「え……俺? おれ、は……」
ちらりと理桜を見ると、いかんとも言い難い顔をしていた。小さく拳を握って頷いている。
(どっちなんだよ……)
二人の感情を探るように視線を右往左往させながら答えを探す。
「俺は……後から入――」
「しかたないなー、じゃあ俺は先に入るね!!」
俺の声に被って理桜が言った。俺の決意を曲げさせまいという勢いがある。コウちゃんは気づかない様子でバッグから下着を取り出しつつ言った。
「早くあったまって寝た方がいいから、尚桜も早く入りなよ」
「んー」
適当に返事をした俺はうつろな眼差しで二人を見送る。理桜に背中を押されたコウちゃんは、困ったように眉を下げて「そんなに急がなくても大丈夫だって」となだめた。
その声もすぐに消えた。二人の声もやりとりも聞こえない。
「……」
広く静かな居間で、俺は思わず大の字になって天井を仰ぐ。まっすぐではない節の目立つ木が格子状に組まれていた。四方に広がる格子を目で追っているとあまりにも静かすぎて耳鳴りがした。
俺はどうして今ここにいるんだろう。
二人がこんなに順調なのに、それをただ黙って、知らないふりをしているためだけにいるんだろうか。
一言、笑いながら「おめでとう」と言えばいいのだろうか。
胸が苦しくなる。心臓に突き刺さったままの針は抜ける様子など微塵もなく、その存在を改めて俺に知らしめた。
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