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第10話 夜の想いを引きずって
どのくらい時間が経ったのか、俺が逡巡している間に二人は半露天風呂から上がってきた。
上気したその顔がただの温泉の効果なのかは俺には分からない。
「おさきー」
薄手の浴衣に身を包み、首からかけたタオルで汗を拭き拭きノンキに言った理桜が、俺の鞄を漁って化粧水を出している。
「おいそれ俺のだぞ」
「いいじゃん、もう俺の切れそうなんだよ」
「自分の使い切れよ」
俺はそう言い放って風呂へ行こうとした。
「あ! おにい!」
「なに」
「温泉か出たらさ、みんなでトランプしよう!」
「……えぇ?」
「昨日できなかったじゃん!」
たしかに昨日は俺の体調不良が原因で二人に迷惑を掛けている。ウッと詰まる俺を見て、理桜はにやにやと笑った。
「負けた人は、明日帰りのパーキングで飲み物おごること!」
コウちゃんはアハハと声を上げて笑っている。今回の旅費はほぼコウちゃん持ちだ。今更その程度の支出がコウちゃんに影響あるとは思えない。
それでも、俺たちに付き合うように笑顔を見せる優しさが理解できた。
「あー、うん。負ける気しないけど」
俺は笑って温泉へ向かった。
『さらりとした透明な湯で――体を芯から温め――皮膚病、婦人病の改善が――』
半露天風呂には木製の小さな立て看板で温泉の効能の説明が書かれていた。
本当なら一緒に入ってわいわい感想を言っていたのだろう。そう思うと、寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、あの二人に割り込めないことくらいは自覚していた。割り込めないし、割り込みたくもない。ヘラヘラする理桜を見たくもない。
半露天からは、真っ黒な空に浮かび上がる数多の星を眺めることができた。ずっと光っているようでいて、時折ちらちらと存在を消してはまた現れる。
それをぼうっと見上げていた俺は、話題の若手歌手が出した新譜の歌詞を思い出していた。
(星の数ほどいる人のなかで、あなたと巡り会えた奇跡――って歌詞があるけど)
流れてきた雲が淡くかかって、星の輝きが薄れていく。思わずため息が出た。
(そんなにたくさんの人がいるなら、理桜はコウちゃんじゃなくても良かったんじゃないか?)
理桜が想う人が男の人でも構わなかった。せめて、自分の知らない人だったらよかった。
知らないところで楽しんで、知らないところで愛情を深めてくれればよかった。
(どうしてコウちゃんじゃないといけないんだろう。他の男は――コウちゃんと何が違うんだろう)
理桜がコウちゃんを見つめる眼差しが、尊敬から思慕へ、そして秘めた愛情を満たしたものに変わっていったのを思い出す。すべてのシーンが鮮やかだった。
(バカ野郎)
胸が締め付けられ、つんと痛む鼻を感じて荒っぽく顔を洗った。
風呂から上がると、居間より風呂に近い寝室の中からくすくすと抑えた笑い声が聞こえた。てっきり居間でトランプに興じていると思っていた俺はまさかの展開に一瞬足を止めたが、気付かないふりをして居間へ進む。
先ほど理桜が荒らした俺のポーチからスキンケア用品を出してパシャパシャと顔を濡らし、わざと気の抜けたような声で「りおー? コウちゃんー?」と呼んでみた。
「……」
反応はない。声も抑えられず居場所もバレているのに、シラを切り通せると思っているのだろうか。
俺は肺の奥底から、呆れと嫌悪の混ざった溜め息を吐いた。わざと足音を立てて寝室に行き、一番手前に位置する自分の布団に寝転がりながら「おい、二人とも」と声を上げる。
真ん中の布団で寝ていた理桜はコウちゃん側に寄っていた。掛け布団の膨らみは、俺側だけがぺたんと平坦だ。
クスクスと笑い声がして、理桜がそっと顔を出した。白い掛け布団から顔を出すその様子は、うずたかく積もった雪から顔を覗かせる小動物のようだった。
俺は「なんだよ、寝てんのか」と言い放つ。二人が何をしていたかを確認したくもない。
理桜は布団に顔を半分埋めたまま俺に視線を向けたが、その目はうれしそうに笑っていた。
「ごめん、疲れたから寝たくなっちゃった」
悪気もなさそうに言う理桜の横にある大きな膨らみは動かない。布団では隠しきれない頭が見えている。
「……コウちゃん」
他人が聞いても感じられるほどのトゲを含ませて呼びかけると、コウちゃんもごそごそと顔を見せた。
「ハハハ。ばれた」
「バレるに決まってんじゃん」
何がバレたかには言及しない。しかしコウちゃんの瞳は俺を真っ直ぐ捉えることを拒んでいる。
(そんなに後ろめたいなら、やめときゃいいのに)
何に対して後ろめたいと感じているのか、俺には理解できなかった。従兄弟の年下高校生に手を出していることは、コウちゃんにとって後ろめたいことなのだろうか。それとも見た目がそっくりな双子の俺にそれを見られていることか?
「もう俺、寝るからな」
そう言った俺の声色は、自分が思っていた以上にふて腐れた子供のようだ。
リモコンで電気を消していくと部屋が闇に飲まれ「おやすみ」というコウちゃんの心地よい低音が響いた。
部屋は暗くシンとしたままで、小さな息づかいだけが響いている。
ごそごそと布団が擦れる音がしたあと、俺の近くで小さく「おにい」という呼び声がした。
「なに」
ほとんど布団に埋もれながらこそこそと返答すると、理桜は同じように布団に埋もれながら口を開いた。
「ありがと」
「え?」
「おにいがいてくれなかったら、こんな幸せになんてなれてない」
「……うん」
「ほんとに夢みたいだ」
今にも笑い出しそうなほど、理桜の声は高揚している。
その口元に笑みが浮かんでいるのが、暗く見えなくても分かる。
(夢であってほしいよ)
声に出せない俺の気持ちなど知るはずもない。
フフ、と笑った理桜が何かに意識を取られて振り返った。すぐに「おやすみ」と告げて、またごそごそと戻っていく。
おれの「おやすみ」は、理桜には届かなかった。
翌朝、ガバッと布団を引きはがされ、浴衣のはだけた部分から寒さが身に染みた。
その瞬間――俺の鼻孔に香ってきたのは、まぎれもないコウちゃんの香水の香りだった。 昨日その手首から香ってきたようなレベルではない。甘く、爽やかで、大人の香りが理桜自体から漂っていた。
「り……理桜……」
呆然と名前を呼んだ俺の顔を不思議そうに見ながら理桜はふくれっ面をし「布団は返さないからな」と言い放つ。
しぶしぶ起きる俺に「大きくなってもお寝坊さんなんだから!」と母親のまねをしながら笑った。
俺たちは居心地の良かった旅館をチェックアウトをし、帰路につく。
家の前に送ってもらうと、母親が玄関先まで出てきてコウちゃんに礼を言い、何かの野菜を持たせた。
コウちゃんは大人の笑みを返して礼を言ってから、俺たちへ手を振った。
「楽しかったよ、また行こうな! テスト頑張れよ」
「こ、コウちゃん、またね!」
今にも車を追いかけて行きそうな勢いで理桜が言う。その横顔は、切なさを滲ませつつも充足感に満たされたものだった。
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