第1話 消えぬ残り香

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第1話 消えぬ残り香

 それから三年後、尚桜と理桜は小学校三年生になっていた。理不尽ないじめも無くなり、健やかに成長している。  今日も学校帰りの二人はいつもの場所へ赴いていた。  学校から徒歩十分ほどの森林公園には大人の背丈ほどに切り揃えられた植樹が広がっていた。その根本、たった三十センチほどの隙間から身体をねじ込めば、木々の間にできている空間は二人だけの秘密基地だ。  ガサガサと茂みが揺れ、ズボッと頭が突き出て野球帽が落ちた。 「遅いよ、おにいちゃん!」  ちらりと視線をやり、頬を膨らました理桜が本を閉じた。容赦なく投げて寄こされるランドセルを受け取って適当に置いている。  尚桜はよいしょと身体を抜き出して、小さな葉を払いつつ理桜の隣に座って笑った。 「ごめんって、祥真(しょうま)とゴミで野球してたら掃除の(ほうき)が折れて俺も怒られてた。わけわかんない」 「当たり前じゃん、掃除の時間は掃除しなよ」  鋭く切り返して理桜が続ける。 「俺、このあとコウちゃんとこ行くから、今日は早く帰ろ」 「またテスト勉強?」 「うん」  光時は現在高校三年生だが、二人の小さなわがままに翻弄されつつも付き合ってくれている。  理桜は嬉しそうに頷いた。  揺れる髪がわずかに尚桜より長いというところ以外、外見はほとんど変わらない。うり二つの身体が楽しそうに触れる。 「今日さー、日直でアイカと一緒になっちゃったァ」 「はは、いいじゃん! おにいちゃん、アイカのこと気にしてたもんね」 「でもボード消したりとか全部俺がやった! ぜんぜんそういうのしてくんなかった」  憧れの少女の冷たい反応に、尚桜はショックを受けている。 「でもまだカワイイなーって思うんだろ?」  理桜の問いに、尚桜が唇を尖らせて頬を染めた。たどたどしい恋の始まりは、とてもいじらしく戸惑いに溢れるものだ。  ごまかすように咳をして、尚桜は余裕を見せている理桜を顎でしゃくって示す。 「そーゆー理桜は好きな子いないの?」   言われた理桜の顔がじわじわと赤くなる。それぞれの顔は双子の互いから見れば別物だったが、傍から見れば全く同じ顔で同じ反応だ。  鏡に映ったように顔を赤くしている理桜を、尚桜が慌てて小突いた。 「なっ、なんだよぉ! いるなら教えろよォ」 「い……いない……」 「じゃあなんで顔が赤いんだよっ」  笑い混じりに責められた理桜が唇を噛み何度も瞬きをしている。尚桜はその腕を掴んでぐいぐいと引っ張った。 「俺がアイカ好きだってバレたじゃん、理桜も言えよ~」 「やだ」 「やだってことは、やっぱいんの!?」  しつこい兄にとうとう理桜が根を上げる。  同じ顔の造形なのに、その遠慮がちな仕草はまるで違って見えた。 「――ちゃん」 「え?」 「コウちゃん」 「あ?」  唇を小さく開いて呟くように理桜が言う言葉を、尚桜は耳を寄せて聞き返す。 「はっきり言えよ、理桜」 「コウちゃん。俺、コウちゃんが好き」  聞いた尚桜が一瞬きょとんとした顔をすると、吹き出して笑った。 「理桜、幼稚園生みたい!」 「な、な、なに言って……」 「俺だってコウちゃん好きだけど、そういうのとは違うじゃん!」  理桜が言い返そうと拳を握ってからそっと下した。今にも泣きそうな顔で「ちがうかな?」と聞く。 「違うよ」 「そっか……じゃあ、わかんないや」  理桜が寂しそうに笑って言った。  しばらく公園で話をしていた二人だったが、理桜の勉強があるため早めに秘密基地を後にした。  理桜は尚桜と別れ一人で電車に乗り光時の家に着く。  インターホンを押せば当然のように光時が出迎えた。背負われたランドセルに手をあて「理桜、すごいね、ちゃんと一人で来れたのか」と優しい笑顔で言う。 「ひとりで来れるし……」  俯きながら頬を染め小さく抗議する理桜を家に上げ、光時は朗らかに「お母さん、理桜が来たから俺の部屋に上がるね」と奥へ声を掛けた。  その従兄弟の家から尚桜の三ヶ原家へ電話がかかってきたのは2時間後だった。電話に母親が応答している。 「あらっ、まぁ! ……うん、あらー。もう、ごめんなさいね、迷惑かけて……いやいや、もう帰らせる! 引き取りにいくから!」  申し訳なさそうに謝ったり笑ったりを繰り返す母親をソファに寝転がった尚桜が見上げている。  ややあってから電話を終えた母親は、紙袋に何かをがさがさと入れ、財布などの入ったショルダーバッグをひっつかむと「尚桜、光時くんとこ行くよ!」と声を掛けた。  慌てて起き上がりその背を追う小さな足音が響く。 「ママ、どしたの?」 「理桜が泣いちゃって帰れないらしいのよ」 「なんで?」  靴を履く母親が苦笑いをして肩を竦めた。ショルダーバッグから車の鍵を取り出している。 「光時くんが神奈川の大学に進学するって言ったら泣いちゃったんですって」 「えー? なにそれ、フフ、やっぱりまだ幼稚園生だな」  鼻で笑った尚桜を見る母親が玄関の外で待っている。 「仕方ないわよ、理桜は光時くんのこと大好きだもん」  その言葉が耳に入った瞬間、尚桜の心臓がドクンと鳴った。  シューズを履き母親を見上げるが、その表情にはなんの他意もないようだ。  言葉にできない不安を抱えつつ、尚桜は母親に付いていった。  車で二十分ほどで光時の家に着く。  玄関前に車を止めてチャイムを鳴らすと、ほどなくして伯母さんが出てきた。  すぐに母親が進み出る。 「貴子さん、ごめんなさい~。もう、理桜ってば……」 「いいのよ、なんだったらホント、泊まってってもぜんぜんいいの」 「もう、そんなの言ったらあの子うちに帰って来なくなるってば。そうそう、貴子さんこれ、おすそわけなんだけど」 「あらーおっきいマンゴー!」  大人の会話を聞きながら車を降り母親の横から顔を出した尚桜を見て、伯母さんは穏やかな笑みを見せた。 「こんばんは、尚桜くん」 「こんばんは! 理桜は?」 「まだ二階で光時と一緒にいるよ」  言われた尚桜は二階に向かって「りおー!」と声を上げた。  少ししてからギシギシと階段が軋む音がして、光時が現れた。  母親が口を塞いで驚いている。 「あら、やだ大丈夫? 光時くん」 「あはは、おばさんこんばんは。大丈夫だよ」  光時は前に理桜を横抱きにしてゆっくりと降りてきた。首もとにすがりつく理桜は顔を上げようともしない。  小学校三年生の、幼児から抜け出しきったその身体を大きな腕がしっかりと支え、抱き留めている。  尚桜は無言でそれを見上げた。 (女子が少女マンガで見てたお姫様抱っこだ)  そう思ったのと同時に、母親が「お姫様抱っこしてもらってんの、理桜」とニヤニヤしながら言った。  光時が理桜の背中を優しく撫でながらそっと床に足を付けさせたが、首もとに抱きついて離れない理桜に対応して玄関にしゃがみ込んだ。 「理桜、ほら、おばさんが来てくれてるよ」 「……」 「尚桜も迎えに来てくれてる」 「……」  理桜は黙ったままぎゅうっと抱きつきなおしている。  おどけるように「苦しい苦しい」と笑い、光時は大人たちへ困惑した視線を向けた。  母親が呆れながら玄関へ踏み込んだそれよりも早く、尚桜が駆け込んで理桜の腕を掴む。 「理桜!」  理桜がそっと顔を上げ振り返った。  最後に別れた時には光時に会えると楽しそうに言っていたのに、今やその元気は全くない。  赤く腫れた瞼を重そうに開いて、潤んだ瞳を隙間から覗かせるばかりだ。  尚桜がぐっと理桜の手を引いた。 「コウちゃんが困ってる!」  理桜が何か言いたげに唇を開こうとしたが、まるでその気持ちを悟ったかのように光時がそっと言った。 「はは、俺は困ってなんかないよ」 「で、でも……ずっとぎゅっとされてたら苦しいじゃん!」  光時が理桜の顔をのぞきこんで微笑む。 「俺は理桜がずっと一緒でもいいかなって思ったけど」  その言葉で母親が「じゃあ今度は光時くんがウチの子になる番かしら」と脳天気に笑う。  尚桜の目線の先で理桜の頬が赤くなった。尚桜は理桜の腕を掴んでいた手に力を込めて、再度引っ張る。 「だめだ!」  その剣幕は全く意識していなかったものだ。そのせいで皆が驚き尚桜に注目したことになど本人は気付いていない。 「コウちゃんのためだろ! 理桜も応援しろよ!」  理桜の瞳から涙がぽろぽろと落ちた。  それでも諦めず尚桜が手を引っ張ると、のろのろと動いて光時から離れる。  そしてほとんど消え入りそうな声で「うん」と返答して頷いた。  理桜は遅々とした動きで靴を履いて、伯母さんが持ってきてくれた荷物は母親が受け取った。  車の後部座席に乗り込んで窓を開け、遠くで見送っている伯母さんと光時を涙を溜めた瞳で見つめている。 「じゃー、ほんと、お邪魔しました! おやすみなさーい!」  元気よく母親が挨拶をしたとき、光時が駆け寄ってきた。  開いた窓から手を差し入れて理桜の頬に触れ、その涙を拭う。 「あんまり泣いちゃだめだぞ、理桜」  車は走り出す。  爽やかな笑顔と二人が初めて嗅いだ香水の匂いを、そしてその存在感を最後まで強烈に残して、光時は希望していた大学へと進学した。
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