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第7話 三人だけの温泉宿
十一日後、俺達三人はコウちゃんに勧められた温泉へ向かっていた。二泊三日の小旅行だ。
車の運転はコウちゃんの役目で、その助手席を理桜は譲らない。譲らないのが分かっているから、俺は一度も交代を要求していない。
「コウちゃん、お茶あるよ」
「お、気が利くね。ありがと」
前方で、理桜はすっかり彼女気取りで世話を焼こうとしていた。
俺がいることなんて何ら意に介していない様子で、コウちゃんの横顔を眺めては笑顔で何かを言って、手放さないカメラでコウちゃんの運転姿を撮っている。
(俺が来た意味あるのかコレ)
俺は鼻から大きな息を吐いて、流れていく窓の外の景色に視線を向けた。
普段の生活とは程遠い、青々とした緑に満ちた世界がそこにある。過行く緑は残像のように見えてまるで瞬間移動だ。
延々と繋がったコンクリートの道をコウちゃんが運転する車はひたすら進んでいった。
宿は海を見下ろす小高い山の上にある温泉街、その最奥にあった。
静かな場所で、昔は文豪がやってきて湯治しながら執筆に勤しんだらしい。
宿のつくりは古いだけあって天井が低く、経年劣化を感じさせるものだった。それでも不快さなどは無く、大事に、清潔に磨き上げられているのが俺でも理解できた。
感心する俺たちの前に、着物を着た美しい女性が現れて名刺を差し出し頭を下げた。
「女将です、この度は、この温泉街に数ある旅館の中から私どもの宿をご利用いただいて、誠にありがとうございます」
コウちゃんが名刺を受け取り「ありがとうございます、楽しみにしていました」と笑った。
隙など一切ない大人の所作だ。皆が笑顔になり空気は一気に和らいだ。
「ずっと運転されてさぞお疲れでしょう。お部屋は離れになりますので、わたくしがご案内いたします」
そう言った女将に通されたのは、本館の敷地内にある離れだ。
まるで一軒の平屋のようなそこは、広く、居間と寝室が別になっているつくりだ。明治時代に迷い混むならこんな景色なのだろうか。外界と切り離された完全な異世界がそこにある。
宿泊料がどのくらいするのか想像するのも恐ろしい。
「わぁー! 庭に滝がある! すごい広い! キレー!」
理桜は嬉しそうにガラス窓へ近付いて開いた。窓を開けると板張りの広縁に一人掛けのソファがあり、その奥にやっと本当の庭に接した外窓がある。
荷物持ちの仲居さんを従えた女将が「そう仰っていただけると、嬉しいです」と口を隠して笑った。
「宿は古いのですが、趣向を凝らしたつくりをしています。この窓は大きな黒いワクのようになっておりまして、まるで外の景色が浮世絵のように浮かんで見えるんですよ」
聞いたコウちゃんが驚いた顔をした。
「へぇ……すごいな、本当だ。――あ、あれは梅ですか?」
コウちゃんは目を細めて外を眺めている。その視界では理桜が無邪気に歩き回っていた。
「そうです。今はお花が咲いていないのですが、春にはお花が満開になってとても美しいですよ」
「冬も、雪が積もればさらに圧巻でしょうね」
「ええもう、仰る通りそれはそれは、美しい白銀の世界ですよ」
今年は暖冬で……と話し始めた女将とコウちゃんを置いて、俺も庭に出た。
冷たい風が足元を撫でていく。「うう、さぶ」と小さくぼやいて、俺はピーコートの襟を立たせた。
理桜は庭の池を覗き込んでいる。
「なんかいる?」
近付いた俺を見上げ、鯉を指さして「サカナ」と答えた理桜に吹き出す。
「お前、鯉くらい分かんだろ」
「ふふ、分かるよ」
嬉しそうに笑っている。こんなに純粋に嬉しそうな顔を見たのは久々だ。俺は得意になって言った。
「今日の夕飯もすごいみたいだぞ」
「部屋に持ってきてくれるんだよな」
「そうそう、なんか……肉の、棒葉焼っていうのとか」
「他には?」
「なんか……サカナとか」
「何のサカナだよ! おにいこそ分かってないじゃん!」
あははという笑い声が青く澄んだ空へ上がっていく。街のいたるところからもくもくと立ち昇る温泉の煙は、俺達の声を巻き込んでふわりと消えた。
「尚桜、理桜、おいで」
コウちゃんの声がして、俺達はまた部屋へ戻った。もう女将たちはいない。
コウちゃんはいたずらっぽく笑っている。その顔はまるで昔のコウちゃんのようで、思わず俺は息を呑んだ。
「俺たち専用の温泉、見てみよう!」
「えっ? 付いてるの?」
「うん、この離れの人しか使えないから、俺達だけ!」
まるでワクワクが抑えられない子供のように、俺達はコウちゃんの後ろをついていった。
畳敷きの居間と寝室があり、その廊下の奥にしゃれた洗面台とすりガラスの引き戸がある。湿度の高さが感じられるその引き戸を引くことを躊躇う必要はない。なにせ、ここにいるのは俺達だけだ。
コウちゃんは俺たちと顔を見合わせると、引き戸を引いた。
「わぁ!」
俺は誰よりも先に声を出してしまっていた。
目の前には石に囲まれ湯を湛えた間違うことなき温泉があった。湯船の半分ほどを覆うように屋根が迫り出し、半露天風呂になっている。
苔むした巨大な岩が湯船の外にいくつか配置され、ちょろちょろと流れる水のせせらぎが聞こえてきた。
大きな石を切り出して作ったであろう床は、湯船のふちから漏れ出た湯でてらてらと光っている。
俺はそこまで温泉が好きじゃなかった。むしろ、知らない人や同級生などと一緒に入るのは面倒だと思うタイプだったが、まさか「自分たちだけの温泉」という冠がついただけでこんなに魅力的に見えるとは思っていなかった。
「猿はまだ来てないね」
理桜がやや残念そうに言う。
「先を越される前に入らなきゃな!」
コウちゃんはそう言って白い歯を見せて笑った。
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