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第8話 大きな影に埋もれた小さな影
旅館では、用意された浴衣から気に入ったものを選ぶと仲居さんが手早く着付けてくれるサービスがあったのだが……俺は正直恥ずかしかった。
しかしノリノリの理桜と、慣れた様子のコウちゃんを前にすると恥ずかしいとか言っている場合じゃない。
理桜は白藤色という薄い色の浴衣に紺色の帯。コウちゃんは黒っぽい紺色の浴衣に薄灰色の帯。俺は、深緑色の浴衣に灰色の帯を選んだ。
手早くコウちゃんを着付ける仲居さんが「お客様、お似合いの香水を付けておいでですね」と小さく言った。「え?」と聞き返したコウちゃんの声で我に返った様子でぎこちなく笑う。
「し、失礼いたしました。あまりにもいい香りだったので」
「はは、嬉しいです。僕用に友人が調合してくれたものなので……僕以外に似合ってちゃ困ります」
おどけるコウちゃんのお陰で、仲居さんは安堵した様子で頭を下げた。
ひょろひょろの俺達と違ってコウちゃんの体は完全な大人だった。肩幅も広く、ジム通いもあってその体には適度な筋肉と大きさがある。浴衣姿はとても恰好よく、似合っていた。
コウちゃんの視線が外れるたび、理桜は勝機とばかりにその姿を目に焼き付けるように見つめていた。
羽織を着てカラコロと下駄を鳴らし温泉街を歩く。もともと火照った身体を冷ましながら歩くもので、防寒対策は完璧ではない。雪が降っていなくても寒さはある。
チェーン展開する温泉宿の名前が大きくプリントされた浴衣を着た人がすれ違いざま、俺達を見て羨ましそうな声を出した。
(いーだろー、今日は俺達だけの部屋で泊まるんだぞ)
「へへへ」
思わず笑みを零すと、コウちゃんがつられて笑い俺を見た。
「どうした、尚桜」
「へへ……なんか、嬉しくて」
「そうだよな、勉強浸けの受験生だもんな」
(そうじゃないよ、二人と一緒にこんな風に居られるのが嬉しいんだよ)
さすがに恥ずかしすぎて言えないが、俺は久々にコウちゃんの顔を真正面から見上げた。爽やかな表情、整った顔立ちで、ぐうの音も出ない。いつもよりもその首筋が強調されて見えた。
「コウちゃん、源泉っていうのがあるよ!」
理桜がコウちゃんの気を引こうと声を上げた。コウちゃんの意識は理桜に向いていく。
すれ違った老年の女性グループが「あらァ、双子ちゃんかわいいわね」と話題に上げたのが耳に入り、突然の羞恥が襲って俺は俯いた。
理桜といれば度々起こる状況だったが、今は目立つ浴衣なのもあって恰好の餌食だ。
俺以外の二人はもうもうと煙を上げる源泉に近付いて盛り上がっている。理桜は手に持ったカメラを源泉に向け、コウちゃんに向け、そして俺に向けた。
「ほら、おにい!」
そう言われても赤らんだ顔を俯かせるしかやり過ごしようがない。
コウちゃんが源泉の柵にもたれて肩を竦めた。
「どうしたんだよ、尚桜。さっきまであんなに嬉しそうだったのに」
「へんなおにい」
二人で顔を見合わせて笑う。俺は嬉しさと楽しさ、そして居心地の悪さを一気に味わいながら、二人の後を歩いていった。
しばらく皆で温泉街を散策していたが、俺の頭のなかはぐるぐるしている。顔の赤さが引かないのに気付いたのはコウちゃんだった。
「おい、尚桜、顔赤いけど大丈夫か?」
理桜がすぐに顔を覗き込んできて「うわ、カゼひいた?」と聞いた。
「わかんねーけど、なんか寒くて暑い」
「それ風邪じゃん!」
理桜が焦ったように俺の手を掴む。その手すら冷たく心地いい。
「とりあえず、すぐに宿に戻ろう」
コウちゃんが心配そうに告げた。
宿に戻ったのは夕方六時ごろだった。陽はとっくに落ち、雰囲気のある街灯と宿の提灯が俺達を迎え入れる。
コウちゃんだけ本館へ寄り、俺達はまるで自宅に戻るように自分たちの離れに入った。
「はー寒かった! おにい大丈夫?」
「ウン」
「しっかりしろよ、食事食べれるかな」
「食べれる」
「無理なら俺が手伝って――」
「食べれる」
俺がのろのろと浴衣を脱ぐのを手伝いつつ「お風呂入ったら?」と言ってきた。
「理桜は入んないの?」
俺の問いに、少しだけ視線を逸らしてハハと笑いをこぼした理桜は「俺は、あとで入る」と遠慮がちに言った。
(そっか、そうだよな)
好きな人と一緒に来たなら、一緒に風呂くらい入りたいよな。
むしろ、俺が一緒にいる方が邪魔だよな。
心臓がズクンと響く。
「悪いけど、先に温泉入るな」
「う、うん。着替えの浴衣、脱衣場に置いとくから」
「うん。ありがと」
小さく礼を言って専用の半露天風呂に行った。
ガラリと引き戸を開けたが、猿はいなかった。
俺が温泉から上がると、寝室には布団が敷かれ、居間では食事の用意がされ始めていた。
コウちゃんが「大丈夫か」と声をかけてくる。
「うん、まぁ、なんとか」
苦笑いをして適当に座る。俺の隣に理桜が座って、卓の対面真ん中にはコウちゃんがいる。
二人はまだ外着の浴衣のままだった。
「――それ、着替えないの?」
「後で写真館の人がたまたま来るから、俺のカメラで写真撮ってくれるって、女将さんに勧められてさぁ」
能天気にそこまで言った理桜は、ハッと俺を見た。
「あ。おにい……ゴメン」
「いいよべつに、写りたいとは思ってないし」
写りたいとは思っていないが、俺だけ疎外されている気持ちにもなる。
コウちゃんは不憫そうに眉を顰めて俺を見つめた。
「尚桜、よければまた少し着付けてもらって、一緒に撮ってもらうか?」
「いいって、寝たいんだよ本当に」
あまりにも子どもじみた態度に自分でも呆れてくる。
(俺はきっと来るべきじゃなかったんだ)
二人っきりにさせてやるべきだった。理桜が何を考えてるのか分からないが、あんな誘いなんか断っていればよかった。
身体のだるさは俺の思考をどんどんと冷えさせていく。
仲居さんが準備をし次々と目の前に出されていく豪華な食事をぼんやりと見ながら、俺は笑顔で会話に参戦した。
メインメニューは和牛の棒葉焼きと何かのサカナだった。
コウちゃんは俺の為に本館から風邪薬をもらってきてくれていた。食後にそれを飲み、二人に挨拶をしてから寝室に行く。
(布団が三つならんでる……)
奥は窓に近い。真ん中をはさんで、手前は廊下の引き戸に近い。
当然後から来る二人は寝ている俺を邪魔と思うだろうから、俺は窓側に歩いていった――が。
(寒い……)
やや冷えた空気が布団の周辺に溜まっている。
(無理……ごめん……ムリ)
いそいそと引き戸のほうへ戻り、俺はゴソゴソと布団に入った。
布団の周辺には十分に歩く場所がある。狭いからといってそこまで迷惑になることもないだろう。
(ああ、俺は本当にバカだな)
胸が苦しくなる。
何のためにここに来たのか。どうして来てしまったのか。後悔しかない。
楽しかったはずなのに。嬉しかったはずなのに。
煮えるような思考と豪華な食事を弱った胃が必死に消化するのを感じながら、俺は眠りについた。
それからどれくらい経ったのか、俺はふと目を覚ました。
時計の音すらしない。寝ていたのが長いのか短いのかの感覚もおぼつかない。
のどが渇いて、首元にじっとりと汗をかいていた。意識は寝る前よりは明瞭だ。
隣を見たが布団に人影は無かった。
のそのそと起き上がりそっと寝室から出る。居間の引き戸は開いていて、廊下にぼんやりとした明かりが零れていた。やたらと冷たい空気が廊下まで入り込んできている。
(窓が開いてる……?)
目を何度も瞬かせ、冷たい廊下を足裏で満喫しつつ、俺は居間へ入ろうとして足を止めた。
庭に吊られた提灯や行燈の灯。そして月の光で広縁に腰かけた人影が浮かび上がっていた。左は小さく、右は大きい。
しん、と静まり返っている部屋の中には、庭の滝の音がちょろちょろと聞こえるばかりだ。深く吐いた俺の息は白く浮いて空に溶けた。
「好きなんだ」
微かに震える理桜の声がした。小さな影は隣の大きな影に向かって前のめりになる。
「子どものころからずっと好きだった。おかしなことだと思ったけど、止まらなかった」
「理桜」
「ごめんね、おかしいよね」
「……おかしくない」
「コウちゃんのことが……恋愛の意味で好きだよ……ずっと、前から……」
理桜は押しつぶされた喉から絞り出すような掠れた声で言って俯いている。
俺は自分の口を塞いで後ずさる。冷たい廊下が俺の体温をどんどん奪っていく。
低いコウちゃんの声が穏やかに響いた。
「理桜、泣かないでいいから」
「だって、俺、いま……変なんだよ、苦しいのに、嬉しくて、怖い」
「こっち向いて」
「いやだ」
「理桜」
低く、大切なものを掬い上げるような優しい呼び声のあと大きな影が動いた。見下ろす小さな影へ顔が伏せられる。
「――!!」
目の前の光景は、まるでカメラのシャッターを押したかのように俺の瞳に焼き付いた。
理桜からは何の反応もない。
少ししてから、影が離れる。
「コウちゃ……」
理桜の手に手を重ねて、コウちゃんはまた顔を伏せた。それ以上、どちらも声を発しない。
(嘘だ、うそだろ)
目の前で繰り広げられるのは、俺が一番に望んでいた理桜の幸福で、喜びの光景のはずだ。――しかし、胸が痛い。
俺の身体に流れる血液はきっと固形の針に変わってしまった。血流にのって、ザクザクと心臓に突き刺さる。
緩んだ浴衣の胸元を強く掴んで、俺は逃げるように寝室へ戻った。それなのに足音だけは立てないように気を遣っている自分が本当に気持ち悪かった。
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