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「ねぇ、覚えてる?」
道端に転がっている鳩の死骸を見ながら、果穂はそう言った。誰か心優しい人が、歩道から離すようにして、横たわらせたそれには皆一瞥もくれることはない。まるで存在しないもののように、すぐ傍を足早に通り過ぎていく。
嫌なものを見てしまったあと独特の込み上げてくるような苦さを感じながら、俺は他の通行人と同じように目を逸らし、目的地へと足を進める。
「何を?」
さっき見たものの記憶を消し去りながら隣を歩く果穂に問いかける。果穂はとても背が小さい。俺は日本男性の中でもいたって平均的な身長だけれど、果穂とアイコンタクトを取るためには、自然と視線を下げて目線を合わせることになる。
「何って。さっきの」
黒目がちな果穂の目が真っ直ぐに俺を見る。それでも果穂の「さっきの」が何を指すのかピンと来ず困惑する。果穂とは大学時代から付き合っていて、友人関係であった頃を含めると約八年の付き合いになる。果穂は出会った頃から、時々突拍子もないことを言い出すようなところがあって、俺はそれを果穂の魅力の一部として受け入れていた。それでも、いくら付き合いが長いとはいえ、困ってしまうことが度々ある。それが今日だった。
「ごめん、何のことかわかんないから教えてくれる?」
このような時は俺が分からないことで、果穂の機嫌が悪くなることが多い。だから、なるべく下手に出て掘り下げて聞くようにしている。
「タバコは吸わないで」
「ご飯のときはテレビはつけないで」
これは全て果穂からのお願いという名の強制的な決まりで、彼女と付き合い続けるためには俺は様々な決まりを守らなければならなかった。
その結果、俺は喧嘩をせずに過ごすための秘訣を約八年をかけて習得していた。
「忘れちゃったの?」
果穂はわずかに瞳を揺らしながら俺を見上げた。
「ごめん、本当にわからないんだ」
果穂は出会った当時、よく泣く女の子だった。しかし、今は違う。ぐっと堪えるように瞼に涙を溜めるだけですんなり泣き止んでしまう。それが俺と二人きりの空間だったとしても。
「サトルね、一緒に初めて美術館に行ったこと覚えてる?」
「もちろんだよ」
俺達の付き合って何回目かのデートは美術館だった。俺は絵にそれほど詳しくはなかったけれど、その頃ムンク展が開催されており、果穂が行きたいと言ったので見に行ったのだ。忘れるわけがない。
「その時ね、道端で鳩が死んでたの」
俺は必死に記憶の糸を手繰り寄せる。言われてみると、そういったことが、あったような、なかったような気持ちになる。しかし、決定的な場面までは思い出すことができず、果穂にその先を話すように促す。
「サトル、急にその場にしゃがみ込んで、手を合わせたんだよ。死んだ鳩に向かって。邪魔なところにいたからみんな迷惑そうな顔しててさ」
その時俺の記憶の中で一つの場面が繋がった。一緒にいた大好きな果穂の存在も忘れてしまうほどに、死んだ鳩が可哀想で、やりきれなくて、手を合わせた。それは確かに俺がやったことだった。
「サトル、変わったね」
変わったのはお互いだ。果穂は人目をはばからず泣くことはなく、空気を読んで行動するようになった。俺は果穂さえいれば、あとはどうなってもよかった。そうやって八年間を過ごしてきた。
死んだ鳩などどうでもいい。悲しいものからは目を背けて、ただ二人でいたかった。
俺はさっき来た道を引き返した。果穂の戸惑う声が後ろから聞こえてきたが、構わず人並みに逆らいながら進んで行く。鳩の死骸の前に立った俺は鳩の死骸を見下ろしたまま佇んでいた。
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