わからないこと

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わからないこと

 単純になぞなぞの答えがわからないこととは異なる。いや、心情としてはそれを増幅したものだと考える方が解りやすいだろう。  これにはどうしても不快感が伴い、差別の対象ともなってしまう。絶望の海にそれは無いが、理解が遠のくことは間違いない。  他者の無神をこの目に映すことは難しきことだ。想像という光が幾ら照らしても、そこに必要なだけの情報が収まっていないと、透明でよくわからないものにしかならず、無神は見えないままだ。  これに対する解は、事細かに丁寧に、自身の心や想像を表現することにある。小説や絵であろうと、歌であろうとそこに変わりはない。  ただ、無神を表すことは恥をかくことでもある。引いては何者かの手によって、害される危険もあり、警戒心を理解できるならば、隠すことの道理も理解できよう。このように開けっ広げな文章とは異なるのだ。  他者の無神を覗くときは、他者が見て欲しいと望んだ部分だけにすべきだ。もしも、それ以上を理解できてしまったとしても、絶望の海に還すべきである。そうすれば、誰かを傷つけることなく、純粋な知識として取り扱うことができる。  納得はできないかな? 確かに絶望の海で息をする者にとっては難しいことではあるが、そこは絶望の海ではないことを思い出し、考えを改めよう。  間違っても己の信念を他者に押し付けてはならない。信念とは自我を保つためものであって、他者の個性を否定するものであってはならない。  それでも至らないなら、他者が発するわからないものをわからないままで消化する方法を三つ挙げる。 一、自分なりに論理を創り出し解決する。思い込み。洗脳。 二、対象者との同意を得て聞き出す。障ることになる。心変わりの迷路に入り込む。 三、わからないを肯定する論理を創り出す。  こんなところだろうか? 一が最もスムーズであり、多くの検証を経ている者であればこれで済む。二は一に至る上で避けては通れぬ道だが、対象者を害することになってしまう可能性が高い。対処としては、対象者以外の人間の心をその人々が望む範囲で知る(読書や鑑賞)などが障らずに済む手段だろう。三についてはさらに難関だが、ここに一つの論理を提唱する。  他者の心を守り、他者の個性を認め、他者の存在を承認する。認め得る価値はすでに手にしている。わからないとしている対象そのもの。この世は矛盾の世界であり、わからないものが存在しなければ、この生は存在しない。  これは、一と二さえも肯定した論理となる。わからないままでいいではなく、わからないことに感謝するということ。参考となれば幸いだ。  
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