記憶、発想、想像。優しきの証明。

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記憶、発想、想像。優しきの証明。

 例えば、生まれた時から既に五感が無かったとしよう。すると、私は生まれたことになっているだろうか?  形があるかどうか、いや、自身の両親すら判らずに、現実の情報は一切入ってこない。従って、思考が存在しても、私は私とすら認識できないほどの混沌としたものになるだろう。  つまり、五感を絶った絶望の海とは、とても恐ろしい場所なのだ。しかし、生まれたばかりの子でない私達は、ここで息することができる。何故だろうか?  そこで、別の感覚、第六感を記憶、第七感を発想、そして、第八感を想像と定義する。  第六感の記憶に関しては、スマホやPCなどにもあるもので、記憶媒体などという言葉を見聞きしたことがあるだろう。それは、現実に形ある物として存在し、脳の記憶のメカニズムを解明すれば、例え五感の無い子でも、記憶を得ることが出来る。人為的に組み込める感覚なのだ。これこそが、洗脳を生み出すものでもある。  第七感の発想。これは五感によって得た記憶をさらに発展させたものである。己の中の道理や現実世界の道理などが織物の如く、折り重なった状態の隙間から現れるもの。おかしいや不思議だなどといった心模様。ここから、発想が生まれる。  具体的に言えば、私は飛べないのに、何故あの生物は飛翔できるのだろう。という思考の流れである。忌々しくも至宝である、わからないことそのものだ。  第八感の想像。ここで己が記憶から、わからないことに対しての論理を作り上げることになる。そのおかげで、想像上の人物や化け物、天使や悪魔などの姿形は生み出される。それらは、記憶の中から継ぎ接ぎして取り出されたものとなる。  それでも、私達は新しいと思えるものを沢山生み出している。 それらは私達が認識している記憶の範囲に無いから新しいと感じるのである。多くの記憶を思考して、知識とし、想像を継ぎ接ぎすることによって、発明という名の映像が現実に映し出されるのだ。想像できるものは創り出すことができるの解だ。  そして、そこに現れた発明によって、新たなる未知と遭遇し、記憶を得、発想が生まれ、更なる発明が生み出される。こうして、あったらいいなが顕現し、より良い世界が築かれる。  しかし、何故その想像を他者が認めることができるのだろうか? それは、私達が共有している知識が存在するからだ。一番解りやすく、根源とも呼べるものが、文字を含む絵である。  絵によって、イメージを伝え、文字はそれを詳細に伝える知識としての絵となり、それから発展した言葉や手話、点字などが更なる理解を促す。これこそが、共感であり、人が優しいという言葉を当てはめている感情の正体である。  記憶、発想、想像。これらの三つの感覚を駆使しているのが学問であり、発明の母である。そして、優しきを生み出すための共感を呼び起こす技術でもあるのだ。
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