止めたかった男

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止めたかった男

 普通止めるでしょ。  女の言葉が頭の中で反芻している。男はタバコをふかし、どこか遠くを見つめながら、階段を降りた。 「初めてだな、自力で戻ってきた女」  先程の不機嫌でどこか投げやりな態度は消え失せ、笑みすら溢していた。ああ言えば今までの女は、悲劇のヒロインぶってヒステリックを起こす。 そう、実際飛び降りる気などないのだ。今までそんな女を男は何人も見てきた。そして今までの女は例外なく飛び降りることをやめ、呆然と立ち尽くしてしまうので、結局男が柵を越えさせる羽目になった。そして助けたあとは、やはり例外なく相手が気が済むまで罵詈雑言を浴びせられた。しかしそれさえ耐えてしまえば、それが過ぎてしまえば、ひどい男だと罵られれば、その女との関係はすっきりすっぱり終わることができた。男にとってある種の成功体験なのだ。  今回女と直接接点はないし、何か特別な関係でもなかったが、昨夜のやり取りを盗み聞くに、今まで見てきた飛び降りようとしている女と一緒だとある種革新があった。だから同じような態度を取った。案の定、女は飛び降りなかった。ただまさか自分から柵を乗り越えてくるとは。 「面白い女」 男は女の言動や行動を思い返しては肩を震わせていた。  男は自分の部屋のドアを開けた。男の部屋はモノトーンを基調としていて、あまり物がない。シンプルといえば聞こえはいいが、パソコンを置くような机、少し値がはりそうな黒い椅子、黒い冷蔵庫に白いボックスが一つ。男がくつろぐ黒いソファーベッドの先には、それなりの大きさのテレビが壁に掛けてあった。観葉植物はないし、もちろんペットもいない。代わりに白っぽいカーペットの凹み具合から、何かが置いてあったであろう痕跡が残っていた。今はもう何もないけれど。  男がソファーベッドで横になって目を閉じようとしたとき、それは突然耳に届いた。 「い……入っ……彼女の部屋……」 「いい……、俺の部屋……」  男の意識は隣の部屋へと向けられた。隣から陽気な女と男の大きな声が聞こえる。屋上から降りてくる階段の音もしていないはずだから、女が帰ってきたわけではない。昨夜のやり取りしか聞いていないが、大きな声の男は、さっき会った奴のことを身体だけの女と言っていた男で、女はわからなかった。男は小さく舌打ちをした。  そんな時、遠くでカーン、カーンと階段を降りてくる音が聞こえた。金属音が鳴り終わると、それは足音に変わり大きくなっていった。そして男の部屋を通り過ぎ、隣で止んだ。その時も変わらず隣では仲睦まじい応酬が繰り広げられていたが、それとほぼ同時にドス黒い溜息がすべてを侵食していった。  ほんの少しの静寂が訪れる。ドス黒さに圧されたのか、隣からの声も聞こえなくなったが、黒さの根源は暴れるわけでも、荒れるわけでもなかった。そしてすぐ、男の部屋の前をゆっくり通り過ぎたであろう足音が聞こえた。 「……ふーん」 男は少しだけ隣の部屋と自分の部屋を隔てる壁を見つめると、タバコを咥え部屋を出た。
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