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男は、いつものように家路についた。今の世の中、歩きタバコを条例で禁じているところが多いが、そんなのお構いなしにライターの火をつける。
空へ向けて煙を吐いても、煙がゆらりと消えただけで星は見えなかった。男の目の下にはくっきりとクマができており、目をこすりながら首を左右に倒して関節を鳴らしていた。
しばらく歩き、ようやく自分のマンションが見えてきたようだ。男はもう一度タバコを咥えて煙を吐きだそうと空を見上げた。その時やや強い風が吹き、男は目を細めようとした。しかし視界の右端に猛スピードで落下する何か見えて、男の真ん前で大破するさまを見てしまった。
「うわっ……なに」
男は目を数回瞬かせると落下物に視線をやった。大破しているがスマートフォンのようだ。そのまま視線を落下ルートに沿って逆走させると、外階段で手すりにつかまっている人影が見えた。文句の一つでも言ってやろうと男は腹に力を入れたが、人影が不安定に上へ向かい始め、男は声をかけるのをやめた。
「あいつが落としたんじゃないのか」
男は外階段以外に視線を向けたが、自分のマンションにも、向かいのビルにも人らしき姿は見かけなかった。ならば犯人はあいつだ。男は見るも無残なスマートフォンに目をやると、少し驚いた顔をした。
「……このスマホ、隣の部屋の……」
男は胸ポケットから携帯灰皿を取り出して、手元のタバコの後始末をすると、大破したスマートフォンを拾って、階段を上がり始めた。自然と足の動きが早くなっていった。階段を上がりながら、男は昨日というか今日未明の出来事を思い出していた。
「バカにしないでよ!」
ハッキリとクリアな罵声が聞こえた。男は目を開けたくなかったが、眠りを妨げられてしまったので、仕方なく近くの時計を見た。午前2:56。男は布団を頭から被って再度眠りに入ろうとした。
「この前約束したじゃない、もう浮気しないって」
男は今度は目をしっかり開いてしまった。早すぎる目覚めの時間だ。男は鬱陶しそうな顔をしながら、寝起きの体を動かし、どこの部屋からの声なのか探りを入れた。どうやら右隣の部屋からのようだ。ずっと女の金切り声が聞こえてくる。男は一瞬ためらったのか一回壁の前で止まったが、なおも続く声にうるせえと一言つぶやくと、壁に耳を押し付けた。
「落ち着けって、頭に響く」
「この女誰よ!」
男はこの部屋の住人のことを思い出していた。隣の部屋は朝からあわただしい音が聞こえてくる。朝早くに玄関ドアが閉まる音が聞こえ、しばらくして寝ぐせ髪と無造作に伸ばされた髭を蓄えた青年が出てくる。部屋を出るタイミングが一緒で鉢合わせてしまい、その独特な風貌は印象に残っていた。青年はけだるそうに頭を垂れると、すぐに誰かに電話をかけはじめた。そして男がいるにも関わらず、こう吐き捨てた。あの女のいいところは身体だけだと。
そこまで言われる女がどういう女か気になって、次の日の朝玄関モニターでチラ見してみた。するときっちり綺麗にスーツを着て朝早くに部屋を出る女が映った。男の部屋の前を通るときスマートフォンを弄っていたが、可愛くてスマートなのにシンプルなケースがとても印象的だった。
すっかり意識を過去の出来事に移していたが、今度はガラスの割れる音が聞こえ、現実に引き戻される。どうやら小競り合いが始まったようだ。ついにバッドエンドかと男は思い、壁から離れるとクローゼットを開いた。そしてスーツケースを開く。スーツケースは綺麗に整理整頓されており、替えのスーツやワイシャツなどが入っていた。その内ポケットから耳栓を取り出すと、素早く装着して布団に戻った。
男が、布団に戻るまでの今日未明の出来事を思い出し終えると同時に、階段を上り終えた。しかしそこには鉄の柵を乗り越え、柵を背にしようとしている女の姿があった。
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