のれん

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いつも通るビルとビルの間の小径に暖簾がかけられていた。文字はなくて、ただ白い布の暖簾だった。暖簾の向こう側は大きな道に通じる。僕はいつも通り大きな道に出ようと、暖簾をくぐった。暖簾の向こう側は、いつもの大きな道だけど、いつもの世界ではなかった。 腕時計を見ようと左手をあげたとき、腕時計はもちろん自分の左腕がないことに気づいた。すぐに右腕も見る。右腕もなかった。足は?両足ともなかった。ビルのショーウィンドウの前に立つ。そこには何も写っていない。どうやら自分は透明人間になってしまったようだ。 前から自転車が来ても、自転車は僕の身体を通り抜けてしまう。僕の目にも僕の身体が見えないなんて、とても不思議な感覚だ。本当の意味で、この世界の一部になった気がした。 せっかく透明人間になれたのだ。やりたいことは一つしか思いつかない。僕はある一軒家を目指した。その一軒家は庭付きの2階建てで、木が一本植えられていた。 僕はその木に登った。普段なら絶対に見つかってしまう。その木の上の方に来ると、家の2階の部屋が見える。そこにはピアノの練習をする女の子がいる。僕のアイドルだ。いつも電車で見かけて勝手に好きになってしまった。話したこともない。 ずっと見ていたくて、住んでいる家までは知っていた。どんな生活をしているのか知りたくて、この木にいつか登りたいと思っていた。部屋でポニーテールにしている彼女は素敵だった。電車の中では髪をおろしていることが多いから。 「にゃー!!」木の下から声が聞こえる。下を見ると一匹の猫がこちらを睨んで鳴いていた。こちらを威嚇していた。どうもあの猫は僕の姿が見えているようだった。その猫の声に驚いて家から彼女が出てきた。 「どうしたの?何鳴いてるの?」彼女は猫の目線の方向を見上げる。彼女と僕は完全に目が合う。彼女は首をかしげて、「誰もいないわよ。何をそんなに怒ってるの?」と猫を撫でる。それでも猫は目線を僕からそらさずに鳴き続けていた。 僕は気まずくなって木を下りてそっと家を出ようとする。すると猫はこちらに向かって走ってきた。それを見て、僕は一目散に走って逃げた。猫には猫だけは透明人間が見えるんだ。こんなに猫に恐怖を感じたことはない。走れ、逃げ切れ、猫から! 気づくと、あの小径にかけられた白い暖簾の前にいた。後ろを見ると、まだ猫はこちらを追いかけてきている。僕は迷わず暖簾をくぐった。道端に倒れ込んで、暖簾の方を見ると、暖簾の向こう側で猫がこちらを見つめていた。もう威嚇してはいなかった。いつもの何も興味のない猫だった。欠伸をして、来た道を戻って行った。 僕の左腕も右腕も両足もきちんとそこにあった。僕は僕自身を取り戻していた。世界の一部じゃない。僕という独立した世界を取り戻したのだ。白い暖簾の方を振り向かずに、僕は僕の世界を歩き始めた。
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