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掴んだ手
「ねぇ、これは何?」
鬼のような形相で、美羽が勢いよく風呂場から飛び出してくる。
手には、俺のワイシャツが握られていた。
「これ。口紅だよね?」
「えっ?」
スマホゲームを一旦ポーズにし、俺は美羽が指差す部分を凝視した。
「あ、ほんとだ。いつの間に」
ワイシャツにはくっきりと、ピンク色の唇が刻印されていた。
「まさか……浮気?」
眉をひそめ、美羽が伺うように俺の顔を覗き込む。
「まさか」
俺はぶんぶん首を振った。
「もしかして……」
もったいつけたように、美羽がひとつ呼吸をする。
「あの、ヒールの彼女だったりして」
「へっ?」
一瞬、考えたあと、「ああ!」ようやく俺は思い出した。
「そう! それ!」
「えっ? やっぱり浮気?」
「違う、違う。そうじゃない。帰りの電車、めっちゃ混んでてさ」
そう。今日の帰りは最悪だった。
どっかで花火大会があるとかで、電車の中は浴衣姿の花火客と仕事帰りのサラリーマンやらOLやらですし詰め状態。身動きひとつ取れなかった。
そこに偶然居合わせたのは、先日俺の足をヒールの踵で思いっきり踏んづけたあの女。
傷の具合を聞かれたから、青あざになったと正直に答えたら、何度も何度も謝られた。
却って申し訳ないくらいだ。
それから花火大会の話題になって。
最近行ってないって言ったから、彼女がいなかったら一緒に行ってやったのに、なんて軽口叩いたりなんかして。
そこんとこ、美羽には内緒だけど。
残念、と女が笑った瞬間、電車が揺れて。
咄嗟に腕を掴んだら、反動で俺の胸元に倒れ込む形になって。
きっとその時だ。
口紅がついたのは。
俺の話に「ふぅん」とつまらなそうに呟くと、「ま、信じてやりましょう」美羽は鼻歌混じりに風呂場へと消えていった。
あんなこと言ってるけど、実際浮気したらタダじゃ済まないんだろうな。
馬鹿だな。
浮気なんてするわけないだろ?
だって俺たち、もうすぐ結婚するんだからな。
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