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冷たい闇に沈んでからどれくらい経ったのだろう。時間の概念も、自己の認識もなにもなくなって、重力のない空間をさまよっていた。
しかし、いつからか空間にあたたかな液体が満たされ、みずからの肉体にも熱い血液が充満するのを感じるようになった。身体はほとんど動かせなかった。
やがて、身体の周りの空間が震えだして収縮し始め、ポンプの原理で私を別の場所へ動かしはじめた。頭の形が変わりそうなくらい狭い通路にはさまって、そのまま動けなくなりそうだったが、ものすごい力で出口へと押し出されて、ようやく暗闇から解き放たれた。
まぶしい、苦しい。
喉に液体が詰まっていて、呼吸するには全身全霊で喉をふり絞らなくてはならなかった。気道に詰まっていたものが押し出されて、大声とともに吐き出された。
それは産声と呼ばれるものだった。
*
「産まれましたよ、おめでとうございます。元気な男の子です!」
汗に濡れた髪を額に張りつかせた母親が、看護師に抱きかかえられた新生児を見て目を潤ませた。
十年後、この男の子は「自分は女性だ」と大々的に訴えて、小学生にも関わらず性別適合手術を決行する。
その行動は世界中の世論を巻き込み、トランスジェンダーにまつわる大論争を引き起こすのだが、それはまた別のお話。
(了)
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