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9
それから三日後の深夜だった。明日は定休日だし、今日のうちに経理を終わらせようと自宅の机に向かっているところに、侑里のスマホが鳴った。
「怜?」
画面の名前に首を傾げ、その電話を取る。
こんな時間に電話が来るなんて珍しいことだ。何かあったのだろうということは分かる。少し不安になりながら侑里は、もしもし、と呼びかけた。
『侑里さん、ごめん……やっちゃいました』
「……どうした?」
『足、捻挫しちゃいました……』
「は……い?」
驚いてまともに言葉を返せない侑里に電話の向こう側で怜が、すみません、を繰り返す。
怜の話はこうだ。つい二時間前のこと、いつも通りに店から自転車に乗って帰っている途中、わき道から出てきた車に驚いて咄嗟にブレーキを掛けるがスピードが落ち切らず接触して転倒、その際負荷がかかった足首をひどく捻挫したらしい。
だから気をつけろって言ってたのに、スピード出るってひーさんにも言われてただろ、と一通り小言を並べた後、侑里は怜がいる病院へと向かった。一人暮らしの怜にこの時間に病院まで迎えに来てくれるような人はいないはずだろと申し出たら、怜は半泣きで、待ってますう、と言った。
ちょっと頭が軽くてお調子者だが、大事な仲間だ。それに店のことを考えたら、正直どの程度の怪我なのか、働けるのかも気になる。
病院前でタクシーを降りた侑里は、夜間入り口から急いで怜が言っていた待合室に向かった。けれどそこへと入りかけたところで、響く声に侑里が足を止めた。聞き覚えのある声が聞こえてきたからだ。
「自業自得だな」
「見てたなら助けろ」
侑里はそっと壁に体を隠して様子を窺った。そこに居たのは怜と景だった。二人で並んで薄暗い待合室のソファに座っている。
「無理だろ。距離があった」
「侑里さんなら走ってでも助けてくれた」
「あいつは誰でも全力で助ける。ていうか、あいつに助けられたいのか?」
「違う! そうじゃないけど……」
怜の声が小さくなる。きっと景に助けてほしかったのだろうと、侑里は思った。事故は景の目の前で起きたのだろう。ということは二人で会っていたのだ――それを考えると侑里の胸は強く痛んだ。
その時、景の声が静かに響いた。
「……怜は店唯一のバリスタだし、怜がいないと店廻らない。大事だよ」
その言葉に侑里は息を詰めた。耳鳴りがして立っていられない。
景が告白している。大事だと言っている。
あんなに優しく抱いてくれたけど、心までは自分に傾けてはくれていなかったということか。心はずっと怜のところにあったんだ……そう思うと、侑里の目から涙が溢れてきた。
こんな気持ちのまま二人の前に出て行くなんて出来っこない。
侑里はそう思ってきびすを返し、病院の外へと出た。救急車がサイレンを鳴らしてこちらに向かってくる。
侑里はそれを避けるように歩き出すと、握っていたスマホが震えていることに気づいた。着信は景からだ。出たくはなかったが、出ないのも変かと思い、侑里は一度呼吸をしてから、ごめん、と電話に出た。
「悪いけど、怜のこと頼む。途中でめっちゃお腹痛くなっちゃって、病院まで行けそうにない」
『え……あ、そうか。大丈夫か?』
「ああ、帰って寝るから平気。怜には明日電話するからって伝えて」
じゃあな、と侑里は努めて明るく言ってから電話を切ると、大きく深いため息を吐いた。
「……終わり、だな……」
十年前に自分から終わらせた恋を勝手に拾い直して、火をつけたけれど、愛に昇華することはなかった。初めから、そんな望みなどなかったのだ。わかっていたけど、分かりたくなかっただけ――だけど、これで全部終わりだ。
「罰、かなあ……」
ただ抱かれたくらいで浮かれて、仕事にも身が入らずにいた。本当はそんなことを考えている暇があったら店のことを考えて努力しなくてはいけないはずなのに、一生懸命ではなかった。
十年前のあの日、景を捨てたのだからそのまま貫けという神様の指示なのかもしれない。侑里は溢れそうになる涙をぐっと堪えて唇を噛み締めた。
もう迷わない。この想いは全て灰にするのだ。
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