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「いらっしゃ……いませー」  閉店一時間前の午後九時、フロアから響く営業用から素に戻る声を聞いて、アイツが来たんだな、と笑いながら、カウンターの奥にいた倉内侑里(くらうちゆうり)はコーヒー用のポットを火にかけた。 「侑里さーん、ブレンドと『いつもの』ひとつです」  面倒そうな顔をしてカウンターに寄って来たのは、侑里が半年前にオープンさせたこのカフェの唯一の店員である岸田怜(きしだりょう)だ。高校を出てから二年、バリスタのスクールに通っていたという二十歳の青年で、明るく人当たりもよく、なにより一生懸命で、侑里も人選にまちがいはないと思っている。少し身長は低めだが歳相応にお洒落でカフェの制服である白いシャツもよく似合う。茶色に染めたアシメの髪に優しそうな可愛らしい顔立ちは女の子の心を射止めるようで、女性客から声を掛けられることも少なくない。  ただ、この時間に来る常連にだけは好かれたくないようで、いつもの営業用キラキラスマイルも封印したままのようだった。  注文を受けた侑里はカウンターの奥にあるキッチンに向かい、余っていた材料でサンドイッチを作る。今日はベーグルにスモークサーモンとレタスをはさんだものと、かぼちゃのサラダ、グリルソーセージをプレートに盛り付けた。 「怜、コーヒー淹れて先に運んで」 「はーい」  カウンターの内側はコーヒーを淹れるためのスペースになっている。そこに立ってコーヒーを淹れた怜は、他に客もいないことをいいことに、嫌々といったふうにテーブルへと向かった。侑里も出来上がったプレートを持ち、カウンターを出る。 「はい、今日の特別プレート」  侑里がテーブルにプレートを置くと、そこに座っていた客がこちらを見上げて微笑んだ。 「いつも悪いな、侑里」  そう言って、いただきます、と手を合わせるのは、侑里の高校の頃の友人の宮咲景(みやざきけい)だ。長身で手足が長く、少し冷たくも見えるインテリ系の顔立ちは昔からよくもてた。相変わらず髪を切るのが面倒なようで長めの前髪が無造作に垂れているが、高校卒業から十年経って、年齢なりの男らしさが加わって、今は美丈夫という言葉が似合う男になっていた。 「何も毎日来なくてもいいんですけどね」  他のテーブルを拭きながら怜が棘のある言葉を投げる。 「まだエプロンの紐もまともに結べないような子に客を選ぶ権利はないだろ」  コーヒーカップを傾けながら景が応戦する。怜は慌ててエプロンの縦結びになっている紐を結び直す。それから、こんなの関係ないだろ、と噛み付くように言い返した。 「もー、毎日やめろよ、怜も景も。特に景、大人気ないよ」  八つも下の子につっかかって、と侑里がため息を吐く。カフェ『オレンジ』一日の最後の接客はここまでがテンプレだ。 「侑里さんに怒られてやんの!」  侑里さんはオレの味方だもん、と怜は、侑里の腕を取って引き寄せた。侑里の体が傾ぐ。 「それは、侑里が優しいから、そう見えるだけ。俺と侑里は十年来の付き合いだぜ?」  なあ侑里、と景がこちらを見上げる。その状況に再びため息を吐いた侑里は、怜の腕を解いて口を開いた。 「おれは常に中立だ」  バカバカしい、と二人を見やると、なぜか二人で笑い出す。 「怒った侑里さんって、可愛いですよね」  怜の言葉に侑里が眉をしかめる。 「それは昔からだな。怒っても迫力はない」  景にも言われ呆れた侑里が、あのなあ、と口を開く。 「二十八にもなって、そんなわけないだろ」 「でも侑里さんって、仕事中めっちゃカッコいいんですよ。背だって低くないし、脚長いし腰細いからソムリエエプロンも似合うし。コーヒー淹れてる背中とかたまんないんですよね」 「……怜は何を見てるんだ、毎日」 「だって、憧れなんですもん!」  訝しげに見やった侑里に、怜が慌てて言葉を返す。そのやりとりを見ていた景が、くすりと笑う。 「憧れねぇ……未だにアイドルみたいな顔してるヤツにねぇ」  歳よりも幼く見られがちなのは、侑里のコンプレックスだ。そこをついてきた景に、侑里は眇めた目を向けた。 「うっせえ。未だに見た目若くて羨ましいんだろ。食ったら帰れよ、おっさん」  おれはクローズ作業始めるから、と侑里がカウンターの向こうへ入る。フロアからはまだ二人が言いあっている声が聞こえていた。 「結局仲良しなくせに」  グラスを食器洗浄機に並べながら侑里は大きく息を吐く。  本当は、仲良くなんてして欲しくない。景には自分だけ見ていて欲しい。でもそれは、願ってはいけないことで、もう自分にそんな権利がないこともわかっている。  十年前、別れを告げたのは自分なのだから。
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