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目覚めは眠りの始まり
「ねぇあなた、覚えてる?」
キッチンから妻の未可子の声がした。
「ん、なにを?」ベッドから頭をもたげて訊いてみた。
「あの頃は楽しかったわね」
「あの頃って、いつ?」
耳を澄ませてみたけど返事は返ってこなかった。
レースのカーテンが寄せては返す波のように、心地よい眠りを誘う。ベッドで横向きになった俺は腕枕でそれを眺めた。
「何ひとりごと言ってるの」
未可子の声にあごを上げた。拭き掃除中なのかスプレークリーナーと雑巾を手にしている。
「与謝蕪村だよ」
「あら、風流だこと」
「春の海ひねもすのたりのたりかなってね」
レースのカーテンは相変わらず風に揺れている。
「穂波は?」
いつもなら俺が目覚めるより早くベッドに奇襲をかけてくる娘の姿が見あたらない。
「穂波ねぇ……」未可子がなぜだかため息をついた。
「穂波なら昨夜は幼稚園にお泊まりよ。後でお迎えに行くわ」
「あぁそうか、お泊まり会か」よっこらしょ。
起き上がり、ベッドから足を下ろした。見上げた壁掛け時計は、午前十時を回っていた。いつもであるならとっくに仕事を始めている時間だ。ふう、と息を吐き、回した首がコキリと音をたてた。
「あの頃は楽しかったって、いつの話?」
問いかけた未可子は眉を上げ、何のことだと言いたげに軽く首を傾げた。
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